2006年10月26日木曜日

カーワンは日本を救えるか?


ダメダメぶり、デタラメぶりがより浮き彫りになって来たラグビー協会ですが、この人選に関してはそれなりに満足度が高いです。
選手として頂点を極め、日本のラグビーにも精通し、そして指導者としても経験を積んでいる人ですから、今の日本代表コーチとしてはまずベストの人選なんじゃないでしょうか。

今のジャパンの現状は、日本ラグビー界の問題点を10年、20年と言う長期間に渡って放置し続けてきた結果ですから、カーワンが来たからと言って全てが上手く行くわけではないでしょう。
でも、ワールドカップまでもう1年ありません。理想を追いかけても仕方が無いので、手持ちの戦力でベストを尽くすように、協会もサポートしてあげてください。くれぐれも、トカゲの尻尾きりにはならないように。


■ラグビー日本代表ヘッドコーチにNZカーワン氏(読売新聞 - 10月25日 23:23)


海外のラグビー専門サイトでも、カーワンの就任はさっそくニュースになっています。

http://www.planet-rugby.com/News/story_54685.shtml

まぁこれは日本への注目と言うより、カーワン個人の知名度の大きさが利いているとは思いますけどね。
ちなみに日本代表は、桜のエンブレムですからチェリー・ブロッサムズなんて呼ばれます。
チェリー・ボーイズと言い間違うとまずいです。
私は早稲田の堀越や今泉、そして明治の吉田義人といった大学ラグビーのスター達と同じ1991年の卒業なんですが、この頃は関東におけるフットボール人気ははっきりラグビー>サッカーでしたね。

それから2年後の、1993年にJリーグが開幕しブームになります。さらに2年後、世界のラグビーはオープン化しアマからプロへと移行、大きな繁栄の時代へと突入しました。
国内外の大きな変化、日本のラグビー界はそのいずれにも適応することが出来ず、大きく遅れを取りました。国内では人気低下、競技人口の減少。さらに国際試合における無様な惨敗の連続...確かに、ボディサイズが大きくモノを言うラグビーでは、世界の強豪に伍して戦っていくのは難しいでしょう。

しかしかつては、オールブラックスジュニアやスコットランドに勝ち、イングランドやウェールズと白熱の接戦を演じた時代もあったわけですから、100点を取られて負けるのはやはり努力不足としか言いようが無いでしょうね。
気が付いた時には、頼みの綱だった大学ラグビーでさえ下火になりつつあるわけですから...


2006年10月26日07:38

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2006年10月18日水曜日

オウオウオウオウ オー・シャンゼリゼ

阪神タイガースの球団歌、俗に言う「六甲颪(おろし)」。
日本のファイトソングの中でも、もっとも有名な曲だと思われるが、この歌のサビの部分はなんと歌うか。

♪オウオウ オウオウ 阪神タイガース

である。
たまに「ウォウ!ウォウ!ウォウォウ!」と、虎の雄たけびのごとく歌う人もたまにいるが、これは決して正しいとは言えない。
では「オウオウ」とは何か。
タイガースの球団名称はもともと「大阪タイガース(大阪野球倶楽部)」であり、この部分の歌詞も

♪オウオウ オウオウ 大阪タイガース

と歌ったという。だとすれば、「オウ」は大阪のイニシャル「O」の意味である、とするのがもっとも自然に思える。「ウィキペディア」にもそういう趣旨の記述があるし、私自身も長年、そう思い込んでいた。
昔の写真を見ていると、タイガースのキャップのロゴは「OT」の組み合わせであったりするから、この説はいっそう信憑性を増してくる。

ただ、阪神タイガースに関するファンサイトなどを見ていると、この説は必ずしも根拠のあるものではない、という意見の方もいる。多くの野球ファンが信じているだけで、作詞者がそういう認識で歌詞を書いた、という確証は取れないらしいのだ。意味がはっきりしない以上、「ウォウウォウ」と同様に「オウオウ」は掛け声、勝利の雄たけびである、という可能性も一概には否定できない事になる。ただし、この場合は虎の咆哮ではなく、人の叫び声ではあるが...

それに「オウ」が大阪の意味ならば、今は阪神が球団名なのだから、歌詞も

♪ハ~ンハ~ン ハンハ~ン 阪神タイガース

と艶っぽいフレーズに変える必要がある。これだと意気が上がるどころの騒ぎではあるまい。
いずれにせよ、球団名はもう「大阪」ではないのだから、由来はともあれ、現行では「オウ」は雄たけび、勝ちどきのオウである、とするのが一番分かりやすいと思う。

ところで皆さんは『オー・シャンゼリゼ』という曲をご存知か。ダニエル・ビダルなどが歌ってヒットした、懐かしいフレンチポップスの名曲だが、これも多くの日本人は「オー!シャンゼリゼ」と歌っていたように思う。しかしこれは、フランス語で書くと

Aux Champs Elysées

となる。
だから歌詞から見ると「シャンゼリゼには」、あるいは「シャンゼリゼでは」という意味であり、感嘆の「おぉ」では無かったそうなのだ。
昔、浦和レッズに望月という選手がいて、レッズサポはこの曲のメロディで「オー、望月~」と歌った。つまり「おお」の意味として歌っていたことになる。
でも原詩と意味が違うから、あるいは取り違えていたからといっても、それが必ず悪い、って事ではないだろう。それはそれで文化として取り込まれているのだから...「スキヤキソング」だって酷い題名だけど、タイトル自体が印象に残って、多くの人々の胸にも刻まれたと思うのである。
 
2006年10月18日07:03

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2006年10月16日月曜日

大道・吉田修・川相、そして桑田...

南海ホークスの生き残り、大道も遂にホークスを戦力外ですか。うーん。
吉田修司も退団みたいだし、それにドラゴンズの川相も遂に現役引退です。歳を取れば、現役を退くのは当然といえば当然ですが、自分が若い頃からプレーを見守り続けた人たちですから、やっぱり寂しいです。

そういえば桑田はどうなるのか。
桑田も38歳ですよね。ということは、江夏がブリュワーズでメジャー挑戦したときより年上なんだなぁ。江夏はほんと、外見がおっさんでしたけど。
今年ドジャースで活躍した斎藤投手の例がありますので、ベテランでも働ける余地がある、と考えたのかもしれません。

大道にしろ川相にしろいまのスマートな選手とは違う、昭和の匂いを濃厚に残したプロ野球選手でしたね。
大道はまだ現役に未練があるようですが、歳は若いから当然でしょうね。

2006年10月16日07:21

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2006年10月12日木曜日

ヤンキース選手搭乗の小型飛行機がビルに激突

今日のお昼過ぎ、ニューヨーク・ヤンキースのコーリー・ライドル投手が乗っている小型飛行機が、ニューヨーク市内の高層アパートに激突しました。ライドル氏を含め、死亡者が出ています。

事故のあったのはマンハッタンの高級住宅地であるアッパーイーストサイドで、私が住んでいるアパートの近くです。建物自体は離れているので直接の影響はありませんが、ライドル氏が乗っていたというニュースを聞いて驚いています。飛行機はライドル氏自身が操縦していたみたいです。

ライドル氏は1972年にカリフォルニア州に生まれ、1997年にニューヨーク・メッツの一員としてメジャーリーグにデビュー。その後はメジャーの各球団を渡り歩き、今年のシーズン途中にフィラデルフィア・フィリーズからヤンキースへ移籍してきたばかりでした。通算82勝72敗の成績を残しています。
ヤンキースのチームメイトであるジェイソン・ジアンビーは、高校時代の同級生でもありました。

ヤンキースではかつての名捕手であり、チームのキャプテンだったサーマン・マンソン氏も飛行機事故で亡くなっています。

さっきからCNNを見ていますが、いまはライドルの双子の兄弟であるケビンが電話出演しています。

今日帰宅途中に、通りがかったレストランのテレビの画像を見ると、ESPNでライドルの写真が出ていたので「移籍かな」と思ったんですが、まさかお昼の事故と結びつくなどとは夢にも思いませんでした。

先週末にタイガースに敗退してシーズンが終了したことが、結果的には今回の事故に繋がったという事になります。1日でも前後にずれていたら、様々な要素が絡まって運命は変わっていたかも知れず、なんともいえない気持ちになりました。
チームはまた、代わりの先発ピッチャーを獲得せざるを得ませんが、彼の家族や友人には代わりはいないわけで、それが気の毒に思います。

それとやはり、考えないといけないのは、小型機だとこうやってニューヨーク市内に低空で侵入することが出来る、って事が広く知られてしまったことですね。
今回は痛ましい事故だったわけですが、これを逆手にとってテロに利用することは充分に考えられます。大型の旅客機をハイジャックするほどの衝撃はないにせよ、今後の課題になると思います。

2006年10月12日07:08

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2006年10月11日水曜日

史上最高のアスリートは誰か(1)

ヤンキースの三塁手、アレックス・ロドリゲスは今年もポストシーズンで期待された成績を挙げることが出来ず、チームをワールドシリーズ制覇へ導くことが出来なかった。ファンからの激しいブーイングに晒され、悩んでいる姿に、マリナーズ時代の颯爽たる若武者ぶりをダブらせることは難しい。彼が若き首位打者として来日したのは、いまからちょうど10年前の日米野球でのことだった。

ヤンキースのサードは、すっかり鬼門となりつつある。このチームが3連覇(1998~2000年)を達成した頃、誰がホットコーナーを守っていたかご記憶であろうか。答えは、スコット・ブローシャスである。1998年のワールドシリーズで活躍し、最優秀選手に輝いた選手だ。ダイヤモンドバックスと対戦した2001年Wシリーズでのプレーも、強く印象に残る人が多いだろう。

http://www.baseballlibrary.com/ballplayers/player.php?name=Scott_Brosius_1966

それでもブローシャスと、エーロドを野球選手として比べるのはやや愚問に近く、また彼らだけに勝敗の理由を求めるのは誤りだ。だが、個人成績自体ははるかに劣るブローシャスのいた時代の方が、現在のヤンキースよりもポストシーズンでずっと強かったというのは、野球というチームスポーツを考える上で、なかなか面白いトピックになるのではないだろうか。

さて、ロドリゲスが入る前の2003年シーズン、サードは最初ロビン・ベンチュラらが守り、後半はアーロン・ブーンが守っていた。ブーンはリーグ優勝を決めるサヨナラ本塁打を打ったことで長く記憶に残る選手となったが、オフにケガしたことで翌年のプレーが絶望的になり、チームはアルフォンソ・ソリアーノを放出してまでロドリゲスを獲得した。この時から、ヤンキースとエーロドの不幸が始まる。

だが、ちょっと待って欲しい。本来ヤンキースのサードは、別の選手が守るはずになっていた。それはミシガン大学でフットボールのクォーターバック(QB)として活躍していた、ドリュー・ヘンソンである。
後にペイトリオッツのQBとしてスーパーボウルを制覇したトム・ブレイディと、名門ミシガン大のエースの座を争ったヘンソンは、秋は大学でフットボールをプレーしながら、夏はヤンキース傘下のマイナーでプレーしていた。この時点では、彼が卒業後メジャーに進むのかか、あるいはNFLへ行くかはまだ分からなかった。もし野球を選択した場合、ジーター&ヘンソンという超大型の三遊間を結成することは、ニューヨークのファンにとっては大きな楽しみとなっていたのだ。

いったんはレッズに放出されたヘンソンだが、再びヤンキースへと買い戻されて野球に専念、マイナーリーグでのプレーを続ける。しかし粗い打撃はなかなか修正することが出来ず、目立ったような進歩を見せることは出来なかった。メジャーでも、2002・03年とほんの少しだけプレーしたが、通算で1安打しか記録することが出来ず。結局、ヘンソンは伸び悩んだ野球の道を諦めて、フットボールへの進路変更を発表した。2004年のことである。

紆余曲折を経てダラス・カウボーイズに入団したヘンソンだが、彼はここでも思ったような成績を残せず、NFL欧州リーグでプレーした後、今年のシーズン開幕前に結局解雇されてしまう。最近、ミネソタ・ヴァイキングスと契約したが、スター選手への道は遠そうだ。野球とフットボールの兼業選手として、高校、大学とあれだけ輝いていたヘンソンが、そのどちらのスポーツでも苦しんでいるのを見るのは全く予想できなかったし、なんとも残念なことだ。

今季のア・リーグ首位打者を獲得したツインズのジョー・マウアーは、高校時代はやはり国内屈指の優秀なQBだったが、有力大学の誘いを蹴ってプロ野球の世界に進み、若くしてメジャーでの成功を収めた。
またスタンフォード大学時代には、やはりヤンキースのマイナーでもプレーしたジョン・エルウェイは、逆にプロフットボールの道へ進んでデンバー・ブロンコスに入団。スーパーボウルを2度制覇する、リーグ屈指の選手として現役を引退している。彼らのような兼業選手にとっては、自分にとってベストのスポーツを選択することがどれだけ大切であり、そしていかに難しいか、ということであろう。


(続く)
 
2006年10月11日06:13


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2006年10月1日日曜日

World Rugby Partnership

マイミクのドンドコ・タカハシさんが発行されている、日本で唯一?のラグビーリーグ(13人制)に関するメールマガジン「ワールドラグビー・パートナーシップ」最新号が発行されました。


私ダイスポも、2008年に開催が予定されている、ラグビーリーグ・ワールドカップに関する連載コラムを持たせていただいております。今回はNZ代表「キーウィズ」について取り上げました。

さてタカハシ編集長はただいま、豪州はシドニーにご滞在中のはず。実は明日、世界最高のラグビーリーグ・トーナメントであるNRL(ナショナル・ラグビーリーグ)の決勝戦が、現地のテレストラ・スタジアム(シドニー五輪のメイン会場)で行われるのです。編集長はお忙しい中、この決勝戦を毎年スタジアムで生観戦されています。

今年の対戦カードは、ブリスベン・ブロンコスvsメルボルン・ストーム。100年近い大会の歴史の中で、史上初めてシドニーに本拠地を置く球団が出場を逃すという、衝撃的な顔あわせによるファイナルになりました。
またご帰国後、編集長からもホットな現地レポートが届くはずです。どうぞ、お楽しみに。
2006年10月01日01:11
 
 
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2006年9月24日日曜日

Ireland's Call

英国の至宝的存在だったサッカー界のスーパースター、ジョージ・ベスト氏が昨年、59歳の若さで亡くなった。
英国のマスコミは、彼の死を大々的に取り上げ、トニー・ブレア首相も「英国が生んだ、最高のサッカー選手の一人だった」と弔意を表した。現役時代はその容貌などからも「The Fifth Beatle」、五人目のビートルズなどとまで呼ぶ人がいた〮だから、そのアイドル性は群を抜いていたのだろう。

しかし、彼はイングランド人ではなかった。ベルファストに生まれた彼は、クラブレベルではマンチェスター・ユナイテッドに在籍して活躍したものの、国際試合においては北アイルランド代表としてプレーした。そして彼は遂に、ワールドカップの大舞台でプレーすることは無かったのである。
北アイルランドがワールドカップの本大会にまで駒を進めたのは、彼が代表入りする前の1958年と、引退後の1982・86年大会であったのは、何か皮肉な感じがする。

このようにサッカーでは、北アイルランドは独自の代表チームを組んでW杯や、欧州選手権などの予選に出場する。
近年では大国との実力差が付いてしまい、大舞台からは遠ざかっている北アイルランドだが、2006年ドイツ大会の予選ではホームでイングランドを撃破。そして、現在行われている2008年欧州選手権予選でもスペインを破るなど、ダークホークスとしての魅力は今でも充分に持っている。ただ、今回の予選でもスペインやスウェーデン、またデンマークなどの強豪等と同じ組に入っているだけに、予選突破までは無理であろう。
これ以外にも、アイルランド共和国は別個に代表チームを結成しているのは、皆さんご存知の通りである。

さてラグビーではどうかというと、南北のアイルランドが政治的問題を乗り越えて統一の協会を結成し、そして代表チームも編成している。だからサッカーとラグビーでは「アイルランド代表」の意味合いが違うのである。
アイルランド代表のラグビーチームが通常、本拠地として使用しているのは共和国の首都、ダブリンにあるランズダウンロード競技場。ここでは試合前に、まずはアイルランド共和国の国歌Soldier's Songが歌われる。しかしそれだけでは終わらない。この後、さらにIreland's Callという、いわばアイルランドのラグビー賛歌が続けて斉唱されるのだ。

なぜこんな事をするのかと言うと、最初の共和国国歌だけでは、北アイルランド出身のファンや選手にとっては具合が悪い。そこでこのIreland's Callをこしらえて、南北どちらの人も気持ちよく歌えるようにしたんでしょうな。
これはホームゲームでの映像だが、ちなみにアウェーでは共和国国歌は演奏せず、Ireland's Callのみを歌うはずである。

共和国の国歌も良いけれど、このIreland's Callもなかなか心を揺さぶる、よい曲だと思いますね。
2006年09月24日08:13

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2006年9月20日水曜日

Hen Wlad Fy Nhadau

サッカーの国際試合やボクシングの世界タイトルマッチ、またはF1の表彰式など、国歌演奏・斉唱は、スポーツのビッグイベントに欠かせないセレモニーとなっている。

アメリカ合衆国の国歌『星条旗』やフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』などは、日本人にもなじみの深い外国の国歌であろう。では、イギリスの国歌は何か?これは『ゴッド・セーブ・ザ・クィーン』(女王陛下万歳)である。ワールドカップでもベッカムやオーウェン、ルーニーなどの「イングランド」代表がワールドカップなどの国際試合に登場すると、この『ゴッド・セーブ・ザ・クィーン』が試合前に演奏され、スタンドを埋め尽くしたイングランドのサポーター達が、力一杯歌っているシーンをご覧になった方も多いであろう。有名なロックバンドだったクィーンも、ライブの終わりでこの曲を演奏していた。
現在はエリザベス女王の御世だから「クィーン」だが、次に獋子が国王の地位に就けば、歌詞は当然「キング」に変わる。

かつては世界に繁栄を誇ったイギリスらしく、この英国国歌はイギリス以外でも国歌として採用され、ニュージーランドではいまだに国歌の一つとして採用されているらしい。ただ、ニュージーランドにはもうひとつ『God Defend New Zealand』があり、ラグビーなどのスポーツ試合では、専らこちらが演奏される。実際、ニュージーランドのスポーツ試合で『女王陛下万歳』が演奏されたシーンを、私は見たことが無い。
またオーストラリアでも、かつてはこの曲が国歌だったはずだが、現在では『アドヴァンス・オーストラリア・フェア』という歌が採用されている。
しかし、この豪州国歌はスポーツイベントで歌われても、どうもいま一つパッとしない歌に聴こえる。有名な『ワルツィング・マティルダ』の方が、個人的には好きだ。

さて、話を英国に戻すが『ゴッド・セーブ・ザ・クィーン』は何度も書いたとおり、イギリスの国歌だ。法律で制定されているわけではないらしいが、そういうことで広く認識されている。だが、ここで言う「イギリス」とはユナイテッド・キングダム(UK)正式国名グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国、のことをさす。
一方、ベッカムやルーニーは、英国を形成する中の「イングランド」の代表であって、UK全体の代表というわけではない。サッカーの世界では今のところ、国際試合の為に全英代表は組織されない。
サッカーに限らず、スポーツの世界では五輪などを除いて、英国は「イングランド」「スコットランド」「ウェールズ」そして「北アイルランド」に分かれて”ナショナルチーム”を編成することが多いのだ。

それでも「イングランド」代表は、「イギリス」国歌である『ゴッド・セーブ・ザ・クィーン』を自らの国歌として通常用いる。エルガーの有名な『威風堂々』も、一応非公式には国歌みたいな位置づけらしいのだが、まぁサッカーなどでは今後も『ゴッド...』が使われるであろう。
ではスコットランドではどうか、というとこれは『スコットランドの花』という曲が、スポーツイベントではよく用いられる。でもこれは公式な”国歌”ではなく、他にもいろいろと候補があるようだ。スコットランド「国内」でも、いろいろ議論があるらしい。

http://news.bbc.co.uk/1/hi/scotland/4837078.stm

そしてラグビー王国・ウェールズでは...ほんとはこれが本題なのだが、前フリが長すぎた...「ランド・オブ・マイファーザー」という歌が国歌として伝統的にうたわれる。ウェールズ語で表記するとHen Wlad Fy Nhadauとなる。
この歌のメロディは大変美しく、そしてラグビーの国際試合で、本拠地ミレニアム・スタジアムを埋め尽くした大観衆が唱和すると本当に物凄い迫力がある。私は世界のいろんな国歌の中でも、ウェールズ人たちの国歌斉唱が一番素晴らしいと思う。


かつて、ラグビーのウェールズ代表は「アームズパーク」というスタジアムで試合を行っていたが、試合前に詰め掛けた大観衆にこの歌を歌われると、その迫力で相手チームは重圧を感じて萎縮してしまい「1トライ1ゴールのアドバンテージをウェールズ代表に与える」と言われたそうだ。
それはともかく、やはり彼らの地声の大きさというか、歌声の素晴らしさにだけは絶対に敵わない。日本人も、最近ではサッカーや野球の試合で国歌を合唱したり、応援歌を歌ったりするけれど、腹からの声の出し方がまるで違うことが、この映像を見ても良く分かるであろう。
2006年09月20日08:50

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2006年9月18日月曜日

さようなら、Kitty

ニューヨーク・ヤンキースの実況アナウンサーであるジム・カットは、先週15日のボストン・レッドソックス戦を最後に「引退」し、今後は妻と共に過ごしたり、フロリダ州でゴルフに興じる日々を過ごすことになった。

15日の試合は、残念ながら雨で流れてしまい、カットの最後の解説を聴く事は出来なかったが、翌16日の同カードを放送したFOXの中継にゲスト出演し、同局のコメンテーターであるティム・マッカーバーと最後の共演を果たした。

カットは1938年生まれ、ワシントン・セネターズの一員として1959年に弱冠20歳でメジャーリーグ・デビュー。翌年初勝利を挙げたが、チームはミネソタに移転し「ツインズ」と名乗った。以来、カットはツインズやシカゴ・ホワイトソックスなどで主力投手として活躍し、1983年にセントルイス・カージナルスで25年に及ぶ現役生活にピリオドを打った。日本で言えば、昭和34年にデビューし、58年に引退したことになる。テッド・ウィリアムズから、ダリル・ストロベリーまで対戦したという。

ちなみに彼がデビューを果たした時の、アメリカの大統領はドワイト・アイゼンハワーであり、引退した時はロナルド・レーガン政権であった。彼がマウンドで投げ続けている間に、大統領はアイゼンハワー→ケネディ→ジョンソン→ニクソン→フォード→カーター→レーガン と移り変わっている。

この間カットは通算283勝をマークし、1966年には25勝を挙げてア・リーグ最多勝のタイトルを獲得している。だがもっと素晴らしいのは、1962年から77年まで、両リーグにまたがってゴールデングラブを獲得し続けたことであろう。通算16度の同賞受賞はピッチャーとして史上最多であり、野手を含めた全体でも1位タイ(ブルックス・ロビンソン)である。また打者としても通算16本塁打を放つなど、投手のみならず、野球選手として優れた才能を持っていた人であった。

引退後は放送席の前に座り、ここでも優れた技能を発揮。派手さは無いが手堅い話し振りで、ファンの心をつかんだ。
私自身もカットのアナウンスぶりは好きで、彼が自伝"Still Pitching"を出版した時に、本にサインをしてもらったが、今でも大切に取ってある。

これほどの活躍をフィールドの内外で見せたカットだが、残念ながらまだ野球殿堂入りは果たしていない。次に彼の姿を目にするのは、クーパースタウンの殿堂入り式典のスピーチであることを祈るばかりだ。
今まで素晴らしい実況をありがとう、そして素晴らしいキャリアに心から賛辞を送りたい。


2006年09月18日15:42

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2006年9月16日土曜日

「週刊ファイト」とペアルックの時代

数日前に、プロレス専門紙の老舗「週刊ファイト」が休刊する、というニュースをこのミクシィで読んだ。

とうとう無くなるのか、というよりも、よくここまで続いたなぁ、という感慨に襲われた。アントニオ猪木やタイガーマスク、長州力といった新日本プロレスの全盛時代、「ファイト」はプロレスファンにとって必読紙の一つであった。いまから20年以上も前の話だ。

「ファイト」では、新日と並んでプロレス界の旗頭である、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの記事は比較的少なかった。だから、全日ファンには必ずしも評判良いメディアではなかったかと思うけど、でも私は東スポとこの「ファイト」だけは、毎週ほぼ欠かさずに読んでいた。今のようにインターネットがある時代ではなく、情報源も非常に限られていたのだ。だからロマンティックな空想も入り乱れて、当時のプロレスには様々な「神話」が存在しえたと思う。だいたい「猪木と馬場は、一体どちらが強いのか?」は、まだプロレスファンにとってもっとも議論を呼ぶトピックであったのだから。

当時はこの2団体に加えて、新日本から派生した格闘プロレスを標榜する「UWF」くらいしかなかった日本のプロレス界だが、その後は新団体が雨後の筍のように発生しては休止するという繰り返しで、プロレス団体に対する求心力が激しく低下。そしてK-1やプライド、UFCといった格闘技ブームの到来で、プロレスというジャンル自体がもう衰退の一途を辿っている。
だから今回の「ファイト」休刊は、一つの時代が完全に終わりを告げる、象徴的な出来事だと言えるのかもしれない。

...そんな事とは直接関係ないが、私の思い出話をひとつ書いてみる。
高校生だった私はある日、駅のスタンドで買い込んだ「ファイト」を読みながら電車に乗っていた。そこに、男女二人のカップルが乗り込んできた。
カップルのいでたちは、今にして思えば異様だった。まず二人とも、お揃いのカンカン帽をかぶっている。そう「嘆きのボイン」で一世を風靡した、あの月亭可朝のトレードマークであるストローハットの一種だ。
しかし、あのカップルが月亭の師匠に憧れて、カンカン帽をかぶっていたわけではなかったと思う。その証拠に、二人はメガネやチョビヒゲは付けていなかったし、ギターも持っていなかった。
ただし、二人ともお揃いの派手なガラ入りのシャツを着て、白いパンツにサスペンダー、というファッションで統一していた。当時、サスペンダーは「ナウなヤング」の必須アイテムだったのだ。
今ではよく覚えていないが、たぶんシューズも「おそろ」だったかもしれない。それは今にして思えば、パリの大道芸人みたいな格好であった。だけど、二人は間違いなく自分達のファッションに誇りを持っていたと思う。二人の全身から「どう、俺たちお洒落だろ?」光線が発せられていたのだ。

つまりあの二人は、上から下までお揃いの「ペアルック」であったのだ。
ペアルック、なんという恐ろしい響きだ。男女が同じ装いで、街へと恥ずかしげもなく繰り出していく。またそれが「良し」とされた時代なのだ。ペアルックが、日本で何時頃から流行したかは分からないが、私の中でプロレスブーム、つまり「ファイト」の黄金時代と、ペアルックの時代はきれいにシンクロしている。特にこの日の印象的なカップルにより、それは消しがたい記憶として私の脳に刻み込まれた。

そして、もっと情けないことに私は
 
「あぁ、あの二人カッコ良いなぁ...俺も自分の彼女と、あんな格好でデートしてみたい」
 
と、一瞬だが思ったのである。ペアルックのでのデートにあこがれたのだ。そこには、先ほどまで読んでいた「過激なプロレス」の世界は微塵も存在していなかった。甘い甘い、ココアとシロップたっぷりのホットケーキを一緒に食べたときのような味わいが、私の脳内一杯に広がっていたのである。

でも、すぐに思い直した。俺があんな格好、似合うわけがないじゃないか。第一あんなファッションをしていたら、10年持つカップルも3年しか持たないかもしれないじゃないかと、極めてアントニオ的な発想で邪念を振り払い、再び「ファイト」の世界へと没頭して行ったのである。
 
そこではブルーザー・ブロディがチェーンを振り回し、藤波が長州に「掟破りの逆サソリ」を仕掛け、そして猪木が延髄斬りで、相手レスラーをマットに沈めていた。
 
2006年09月16日09:44

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2006年9月15日金曜日

米国スポーツ人気の退潮

私が青春期を過ごした80年代~90年代前半は、日本における海外スポーツ人気の最盛期だったと思う。当時はスーパーボウルだけではなく、大学のフットボールの試合も正月に地上波で生放送されていたし、北米スポーツそのものをテーマにしたテレビ番組などもたくさんあった。
アメスポだけではない。F1やセリエを中心とした欧州スポーツも本格的にファンを増やしたし、オージー・フットボールの試合も本場の強豪チームを招き、横浜スタジアムで行われたりしていたのだ。
もちろん、スポーツグッズがファッションにおいても重要な位置を占めていた。

しかし、現在はあらゆる米国スポーツの人気が退潮だと思う。
野茂英雄がドジャースでデビューを果たした1995年頃から、メジャーリーグについては日本人選手の活躍だけを大きく取り上げ、NFLとNBAはその頃から、相次いでファンを失っていった。いまや日本人は野球とサッカー日本代表、そして総合格闘技にだけしか興味を持てないような雰囲気である。

それが良いか悪いか、私には判定を下す資格はない。ただ思うのは、確かに80年代当時の方が、アメスポは面白かった。何が面白いと言うと、選手の個性を見るだけでも楽しかったと思うのだ。

実際のところ、80年代半ばから90年代初頭にかけて台頭してきた選手たちは、実力もさることながら個性的で存在感があり、そして息長い活躍を見せる人が多かった。これは生まれた年で言うと、1960年代前半から半ばに集中しているように、私には思える。
たとえば、思いつくだけでも以下の通りとなる。この時期に生まれたアメリカ・カナダのプロスポーツ選手を、生年別に順不同で挙げてみよう。

1961年生まれ:ウェイン・グレツキー、マーク・メシエ、ダン・マリーノ、スティーブ・ヤング、アイザイア・トーマス、デニス・ロドマン、ドン・マッティングリー

1962年生まれ:ロジャー・クレメンス、ボー・ジャクソン、ジェリー・ライス、パトリック・ユーイング、クライド・ドレクスラー

1963年生まれ:マイケル・ジョーダン、チャールズ・バークレー、カール・マローン、ランディ・ジョンソン、マーク・マグワイア、ブルース・スミス

1964年生まれ:バリー・ボンズ、ドワイト・グッデン

1965年生まれ:マリオ・ルミュー、スティーブ・アイザーマン、デビッド・ロビンソン、スコティ・ピッペン、レジー・ミラー、ランドール・カニンガム

1966年生まれ:グレッグ・マダックス、トム・グラヴィン、カート・シリング、アルバート・ベル、トロイ・エイクマン

(間違っているかもしれないが、また修正します。)

ちなみに個人競技では、カール・ルイスが1961年生まれ、マイク・タイソンは1966年生まれだ。
もちろん、前後の世代にも優れたアスリートはたくさんいるが、この世代の集団はやはり、強烈だ。

特にNBAはバルセロナ五輪の「ドリームチーム」世代だが、バスケ史上に残る優秀な選手の集まりだと言ってもほぼ差し支えないと思う。
NFLに関しては、その前の世代についても充分に人材豊富なのだが、やはりこの上の世代から、最高のアスリートはプロフットボール選手の道を歩むようになったのかもしれない。

この人たちの多くが、90年代後半から相次いで衰えを見せ、現役を退いていった。もちろん今でもバリバリ活躍している人もいるが、彼らの多くが一線を退いてしまった以上、物足りなさを感じるのも、なかば仕方が無いと思うのである。それだけが、日本のアメスポ地位低下の理由ではあるまいが...

2006年09月15日05:49

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2006年9月9日土曜日

私は初代マリナーズファン、かもしれない

シアトル・マリナーズは1977年、いわゆるエクスパンションチーム(拡張球団)として誕生した。
当時のメジャーリーグ...いや「大リーグ」では、ビッグレッドマシンの異名を取ったシンシナティ・レッズやロサンゼルス・ドジャース、またはニューヨーク・ヤンキースと言った古豪が息を吹き返し、ワールドシリーズで対戦していた時代であった。

またこの頃から日本でも、フジテレビが大リーグ中継を開始。毎週日曜日のお昼は、野球の本場アメリカから届く、エキサイティングなプレーを見るのが楽しみになっていた。
ピート・ローズ、レジー・ジャクソン、ジョージ・ブレット(当時はよく『ブレッド』と書いていた)トム・シーバー、そしてノーラン・ライアン...個性豊かな大リーガー達の共演は、まだ子供であった私にアメリカ野球の魅力と、雰囲気と、そしてホットドッグの匂いを(想像の中で)教えてくれたのである。
だいたい、レジー・ジャクソンみたいな風貌の男は日本のプロ野球には決して存在していなかった。あえて言うなら松鶴家千とせだが、彼は野球選手ではなかった。ヤンキースではジャクソンよりも、グレイグ・ネトルズというサードが私の好みだった。彼の弟のジムは、南海ホークスでプレーした事もある。

野球に関することならなんでも記憶したかった当時の私は、当然大リーグの球団やスター選手の背番号などを覚えることに熱中した。その中で目に付いたのが、シアトル・マリナーズという球団である。「マリナーズはまだ出来立ての、大リーグでもっとも新しい球団のひとつ」「本拠地のキングドームは屋根付き球場」というのが、私の興味を大いにそそった。ドーム球場は憧れだったし、新しいチームというのが良い。出来立てで弱そうだけど、これから強くなるかもしれない。よし!俺はマリナースを応援しよう。そう決めた。

割合に簡単な理由で、私はマリナーズを応援することに決めた。といっても、当時のマリナーズにはスーパースターはいなかった。後に阪神タイガースでプレーする、ルパート・ジョーンズが主力選手として活躍していたはずだけれど、当時はもちろん、そんな事は知る由も無かった。それに弱いチームだから、そもそもマリナーズの試合を見る機会は日本で殆ど無かった、といっても良いだろう。
 
私が見落としていたのかもしれないが、少なくとも当時、マリナーズという球団の存在自体、日本ではマイナーも良いところだった。今のように、海外スポーツの情報がそこかしこに転がっている時代ではもちろん無く、乏しいテレビ中継と雑誌、スポーツ新聞などのメディアから、その戦いぶりを想像するのが関の山だった。だからなにか特別に、ファンとしての行動を起こすということは無かった。

それに何時しか大リーグへの興味は薄れがちになり、当時もう一つの人気スポーツになりかけていたアメリカン・フッボトール...いわゆる「アメラグ」へと私の関心は移った。それでマリナーズの事も、すっかり関心を失うようになっていった。
私がマリナーズに対する興味を、再び覚えるようになったのはずっと後、ケン・グリフィーJr.が登場した頃だから、80年代の末か。当時はラフィーバーが監督を務めていたが、なにしろその頃になっても、球団が出来てから一度も勝ち越したことが無かったという、呆れるほどに弱い球団だった。

でも90年代に入ってからは、ジュニアやティノ・マルティネス、エドガー・マルティネスにランディ・ジョンソン、そして若き日のA-Rodなど多くの人材が育ち、マリナーズは強豪への地位をだんだんと駆け上がっていく。また佐々木主浩やイチロー、そして城島などが在籍し、日本人にもなじみの深い球団になった。
でも、私が初めてシアトルを訪れたのは2000年の事。キングドームは既に無く、真新しいセーフコ・フィールドが完成していた。そして私自身、特別にマリナーズへの思いを掻き立てるようなことはもう、なかった。

この年の秋、マリナーズはリーグ優勝決定シリーズまで駒を進めるも、ヤンキースに2勝4敗で敗れ、初のリーグ優勝を逸してしまう。翌年にはイチローを擁してシーズン116勝の快進撃を見せたが、やはりリーグ制覇の美酒に酔うことは無く終わっている。
 
2006年09月09日08:55

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2006年9月4日月曜日

アガシ引退

今日の新聞各紙、一面トップはだいたい全てアガシ。
長い競技生活に、遂に終止符を打つことになりました。
36歳、よくここまで頑張ったな。

サンプラス&アガシの時代も、これで完全に終了です。
長くファンを楽しませてくれましたからね。
もちろんテニスが終わるわけじゃなけれど、個人的にはこれで確実に、テニスに関する興味が減ることになる。
フェデラーやナダル、それにA-Rod達ももちろん素晴らしい選手だけど、まだアガシやサンプラスほどの興奮と感動をもらっていない気がする。
マッケンロー、ボルグ、それにジミー・コナーズ、皆個性的で、凄い選手ばかりでしたね。テニスの神々の時代、とまでいえば言いすぎかな...競技の枠を超えて、スポーツ好きな人なら、皆知っていましたよね。
アガシもこの系譜に連なる人だと思います。

今の名選手であるフェデラーやヒューイットたちももちろん素晴らしい選手だとは思うんですが、彼らとは比較にならないというか、いま一つピンと来ない。その人の生き様みたいなものが見えてこないんですね。あくまでテニスの世界の住人という印象です。だから彼らの足跡を追いかけよう、という気持ちがイマイチ起こってきません。
自分が歳をとって、感性が鈍ったというのもあるんでしょうけどね。


2006年09月04日23:27

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2006年9月1日金曜日

アメリカ野球の不安

フィラデルフィア・フィリーズのライアン・ハワードは、今季ナショナル・リーグの本塁打・打点両部門でトップを走っている。今夜のワシントン・ナショナルズ戦では49号を打って、あのマイク・シュミットが持っていたチーム記録を塗り替えてしまった。このまま行けば、年間60本塁打達成も決して夢ではなくなってきた。そして二冠王を獲得すれば、リーグMVPの有力候補にもなるであろう。

ハワードは1979年生まれ、今年の11月で27歳の誕生日を迎える。このまま伸びれば将来のホール・オブ・フェイマー(殿堂入り選手)となりそうだが、実はハワード、ミズーリ州生まれのアメリカ人で、いわゆる黒人選手である。
ところが近年、アメリカではアフリカ系の子供たちが、野球選手への道を選ばず関係者を悩ませているのだ。
メジャーリーグで最初の黒人スターとなったのは言うまでもなく、元ブルックリン・ドジャースのジャッキー・ロビンソン。以来ウィリー・メイズやヘンリー・アーロン、そして現在のバリー・ボンズやケン・グリフィーJr.に至るまで、彼らはアメリカ野球の代名詞として君臨してきた。20世紀後半におけるメジャーリーグの魅力は、彼らが生み出してきたものが実に大きな部分を占めている。

ところが、今、アメリカ人の黒人選手で野球のスーパースターが減って来ている。ハワードや「Dトレイン」ことドントレル・ウィリスなどのヤングスターももちろんいるが、彼らはいまだ「野球内スター」に留まっている。NBAのレブロン・ジェームスや、NFLのスーパールーキーであるレジー・ブッシュ、ヴィンス・ヤングのような、競技の枠を超えたスーパースターとしての地位を獲得できるかどうかは、まだ分からない。黒人アスリートのトップクラスが野球ではなく、フットボールやバスケットボールを最終的に選択するのは、もはや当然のようになってきているのだ。

リトルリーグなど少年野球関係者にとってもこれは悩みの種のようで、たとえ野球をプレーしている子供でも、実際に憧れているのはマイケル・ジョーダンなど、他競技でのスタープレイヤー、というケースが多いようだ。アフリカ系の子にとっては、もはや野球はとっくの昔にナンバーワンスポーツではなくなっているのである。
アメリカの子供たちは一つの競技だけではなく、シーズンによって様々なスポーツをプレーする。だから春は野球で秋はフットボールの選手、という子供も多いのだが、逆に言えばそれだけ他競技へ「浮気」するのも容易なわけで、魅力を感じなければあっという間にその子は、野球をプレーすることを忘れてしまう。

ボー・ジャクソンやディオン・サンダースのように、複数の競技を掛け持ちしてプロでプレーする人もたまにはいるが、これはあくまでレアケース。プロになる段階で野球を選ばない子が増えれば、アメリカの野球界そのものの実力低下は顕著になるであろう。だから子供たちにいかにして野球の魅力を知ってもらい、シニアレベルにまで継続してプレーさせられるかどうか、これが大きな課題になってくる。野球を愛し野球を生涯の仕事とするコーチや関係者にとっても、これは決して容易な話ではない。

とはいえ、メジャーリーグ自体はカリブ海諸国をはじめ、世界中から良い選手が集まるから、黒人選手のスター自体は減っていない。国籍を超えて実力で評価される世界だから、直接の影響がすぐに出るというわけではないだろう。
しかし、メジャーの総本山であるアメリカの中で、アフリカ系の子供たちが野球をプレーしたがらないとしたら、やはりそれは様々な意味でマイナスの要素となりえる。トップアスリートの多数を占める彼らが、野球に魅力を感じずプレーしないということは、野球はもはや、アメリカでは最高のスポーツではない、という事をおのずから証明してしまうことになる。
メジャー版「レブロン」は、果たして21世紀のアメリカで誕生するのであろうか。
 
2006年09月01日08:32

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2006年8月29日火曜日

江夏のピッチングノート

阪神タイガースや広島カープで投手として活躍、「優勝請負人」と呼ばれた江夏豊は、若い頃から自分のピッチングの内容を詳細にノートに書き記していた。
1年間に1冊のペースで、配球表や球数はもちろんのこと、登板したときのシチュエーションや自分の心境、さらには体温に至るまで事細かくメモしていたという。このノートの記されたデータを見れば、江夏が毎年、毎試合どんなピッチングをしていたのか、手に取るように分かったはずである。

江夏いわく、ピッチャーにとって重要なのはボールのスピードとコントロール、そして記憶力だという。江夏のような名選手は、概して抜群の記憶力の持ち主であることが多いけれど、経験したことをノートに書き綴ることで、何時までも頭の中に植えつける、というトレーニングをしていたのだ。それはもちろん、自分のピッチングにフィードバックされる。

江夏に日記を書くように最初に勧めたのは、タイガース入団時の監督である老将、藤本定義であった。だが江夏は(一流のアスリートにありがちだが)字を書くという面倒な作業が嫌いで、ピッチング日記を書くのには抵抗を感じていた。
ところが、ピッチャーとしての先輩であった村山実に「人間の記憶はあてにならない。最初は落書き調で良いから、少しずつ書くと良い」とアドバイスされ、それなら...とメモを取り始めた。
最初は確かに簡単なことしか書いていなかったが、書き進むにつれてより詳細なメモを取るようになった。球団からスコアブックを借りて自分の投球内容を確認しながら、精密な記録を自分でも残すようになっていったのだ。たとえばこの打者に対し、勝負球の前にどんなボールを投じていたのか、その時どのような気持ちで投げていたのか。結果だけではなく、それが導かれた過程にまで踏み込んで、江夏は記録を残すようになっていたのである。
もともと優れた「野球頭」の持ち主がさらに人一倍の勉強するのだから、まさに鬼に金棒だったに違いない。

江夏がメモを取るきっかけとなった人はもう一人いて、それは昭和44年に阪神の指揮を取った「クマさん」こと後藤次男であった。
後藤はパチンコや競馬などギャンブルが好きな人だったようだが、自分の遊びの結果を「勝負事ノート」として書き綴っていたらしい。パチンコは「パ」麻雀なら「マ」と略して、その結果をメモする。後藤はこのノートをつけるのが楽しみで、クセになってしまい書かないと落ち着かないんだ、と江夏に語っていたという。

...確かに、何事かを書く習慣が付いてしまうと、それを中断するとなんだか気持ち悪い、というのは良く分かる。
私は日記を書かないが(強いていうならこのブログ)その代わりノートに、本や雑誌、またネットなどから仕入れた情報をほぼ毎日、ざっとメモしている。江夏における投球内容のように、しっかりと頭に残す必要性があるわけでは必ずしも無いけれど、せっかく調べて得た情報も、ネットサーフィンしたり雑誌を読みっぱなしにして終わりでは、私はすぐに忘れてしまう。記憶の片隅には残っているんだろうが、何かキーワードのようなきっかけを与えないと頭から検索されて出てこない。
またテレビやラジオの情報というのも、案外バカに出来ない。言ってみれば垂れ流しの、一過性のメディアであるからこそ、記録を取っていれば後に意外と活きる事もある。ただ、実際の問題として、テレビを見ながらノートを取るというのはさすがに稀だが...

何も手書きにしなくても、パソコンのメモパッドのようなものにコピーしたり、あるいはサイトのアドレスを取っておくだけでも良い(実際そうする事もある)のだが、私にはノートに書く方式が一番合っているのだ。
それこそ箇条書きの項目だけでも良い、紙に書いて残しておくと、後からそれを観るだけでするするっと内容を思い出す(事もある)。江夏が言うとおり、書く事で記憶により鮮明に定着していると思う。

...話が脱線したが、江夏は西武ライオンズで現役を退く1984年まで、毎年ピッチングノートを作り続けた。正確には、西武時代はあまりメモできなかったようだが、最後には手提げ袋2つ分くらいのボリュームある、ノートや手帳の山が出来上がった。これはそのまま取っておけば、日本のプロ野球史研究に役立つ貴重な資料になったことだろう。何より後進の選手たちにとって、願っても無い投球術のテキストになった可能性もある。
だが、江夏は84年の冬、これを友人宅で全て焼却してしまう。プロ野球人生は終わった、これからは新しい道を歩み始めるんだ、と言う事で、きれいさっぱり燃やしてしまったのだという。江夏にとってピッチングノートは、自分のプロ野球人生の証しであり、シンボルのようなものになっていたのだろう。自分の分身のようなノートを燃やしてしまうのは簡単ではなかったはずだが、しかしもう、一冊も現存していないはずだ。

実際にはこの後、江夏はブリュワーズのキャンプに参加する。だが、ノートを焼却処分した時点で、やはり現役生活には一区切りを打っていたのかもしれない。

<参考資料>
「左腕の誇り:江夏豊自伝」江夏豊(草思社、2001年)
「ワイもいうでェ~」江夏豊(海越出版社、1985年)
 
2006年08月29日14:23

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2006年8月13日日曜日

読書日記、コント・ランデュ

鹿島茂『成功する読書日記』

読書論や文章論の本はたくさんあるが、読書日記の書き方について書かれた本は意外と少ない。しかし、読書家はただ読むだけでなく、読んだ後の記録にも気を使っているはずであり、そういう意味で本書は貴重である。

http://www6.plala.or.jp/Djehuti/310.htm

読書日記(これ。)で引用をするというのは、なるべく心がけてやるようにしてます。 
でもそれを発展させたレジュメっていうのはすごいなー。
次のコント・ランデュ(自分の言葉で要約)、そのあとでやっと批評ができる・・・



http://www.webdokusho.com/shinkan/0211/t_3.htm (リンク切れ)


成功する読書日記・入門編。まずはアトランダムな引用から初めて、次に引用だけからなるレジュメかコント・ランデュ(compte-rendu:物語や思想を自分の言葉で言い換えて要約)。それに簡単な感想かコメントをつけて、読書日記はここまで。 
そこから先は「批評という大それた行為」の領域だと書いてある。あとがきにかえて添えられた「理想の書斎について」がよかった。膨大な蔵書を誇る図書館を書庫代わりにつかう、書庫なし、書棚なしの「理想生活」を送るためにも、引用レジュメやコント・ランデュで読書日記をつける習慣が不可欠だと書いてある。


http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/NIKKI3/227.html





2006年8月9日水曜日

ラグビーのポジション

マイミクのきんぐさんが、高校野球の背番号について書かれていた。


そこで、私としてはラグビーの背番号やポジションについて書いてみよう。
ラグビーの場合は

①②③=フォワード第1列(フロントロウ)
①③プロップ
②フッカー 

④⑤=フォワード第2列(ロック=セカンドロウ)

⑥⑦⑧=フォワード第3列(バックロウ)
⑥⑦=フランカー
⑧=ナンバーエイト

⑨⑩=ハーフバックス
⑨=スクラムハーフ
⑩=スタンドオフ

⑪⑫⑬⑭=スリークォーターバックス
⑪⑭=ウィング
⑫⑬=センター

⑮=フルバック

というのが基本構成である。
もちろん、背番号の通り並ぶとは限らない。
それにラグビー王国のニュージーランドでは、⑩⑫のユニットを「ファイブエイス」と呼ぶ、などポジションの呼称は地域によって異なる。
特に⑩は「スタンドオフ」のほかに「フライハーフ」というのもかなり一般的だ。でも日本のファンで「フライハーフ」と呼ぶ人は稀だろう。

人によって好きなポジションは異なるが、私はセンターとエイトが好きである。プロップをプレーする人は奥が深くて面白い、というけれど、私にはもちろんその深さは分からないものがある。
ラグビーも元々はフルバックが①だったんですよ。でも今から50年ほど前に、現行のシステムに変更されたはずです。
その変更の経緯について書かれた文章を昔読んだはずなのですが、今は覚えておりません。

ちなみに13人制のラグビーリーグでは一般的に、今でもフルバックに1番を与えます。そしてハーフバック(スクラムハーフ)が7番で、そしてフォワードがプロップから順に8~13番になります。


2006年08月09日16:25

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2006年8月6日日曜日

ケン・シングルトンたっぷり長講

昨日のボルティモア・オリオールズとニューヨーク・ヤンキースの一戦はYESネットワークの中継で、実況はケン・シングルトンとポール・オニールのコンビで行われるはずだった。

ところが、ポーリーの乗った飛行機がトラブルか何かで飛ばなかったらしく、そのままシンシナティで釘付け。パートナーが来なかったシングルトンは、仕方なく一人で3時間の実況をこなした。

3時間喋り続けるのは、なかなかしんどいと思うよ。でも、元選手ながらこういう場面できっちり実況・解説をこなしてしまうところが、やっぱり彼らベテランの凄いところだろう。
 
2006年08月06日10:13

2006年8月3日木曜日

篠竹幹夫さん死去

日大フェニックスの監督として、日本のアメリカン・フットボールの歴史に大きな足跡を残した篠竹幹夫さんが、先月の10日に死去されていたことがわかりました。

最近はすっかり低迷したようですが、篠竹監督時代のフェニックスは、そりゃもう大学のチームとはとても思えないような強豪チームでした。その攻撃戦術の代名詞は、なんと言っても「ショットガン」。
日大vs関学、あるいは日大vs京大の甲子園ボウルにおける宿命の対決は、まさに日本のアメフト史に残る名勝負の数々ですね。
ああいう試合を生で見て、フットボールの魅力に触れたファンも当時は多かったと思います。
その黄金期はあまりに強すぎて憎たらしい感じもしましたけど、氏のフットボールに対する情熱と理論は、やっぱりピカイチでした。
強面な印象が強い人でしたが、しかし教え子である内田さんのコメントを見ると、シーズン中は怒らなかったんですね。ちょっと意外でした。

アメリカのカレッジフットボールにも多くの名将がいますが、日本人にあった戦法を常に模索していたという意味でも、篠竹さんは本場の一流どころにも決して負けないだけの優れた指導者だったと思います。
 
たとえばラグビーでも明治の「重戦車フォワード」それに対抗する早稲田の揺さぶり攻撃みたいに、当時の大学スポーツは非常に特色豊かで面白かったですね。
甲子園ボウルが名前の通り関西での開催で、アメフト熱が伝統的に高く、王者日大に挑み倒す関西勢、て図式がまた良かったと思います。
前に「シーズンチケット」で書いたんですが、京大がショットガンを徹底的に研究しそれを打ち破るのは、日本のフットボール史上に残る名場面でしょうね。

あとフェニックスを題材にした映画があったんですけど、菅原文太が篠竹さんの役を演じたんじゃなかったカナ。
 
合掌。
 
 
2006年08月03日10:17

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2006年7月31日月曜日

ジェイソン・タイナー

ミネソタ・ツインズとデトロイト・タイガースが、ツインズの本拠地メトロドームで対戦。リードされていたツインズが終盤に入って逆転し、6対4で勝利を収めた。

それは良いのだが、今日はこの試合に出場していた、ツインズの外野手ジェイソン・タイナーの事を書いてみたい。
タイナーはもともと、2000年にニューヨーク・メッツでメジャーデビューを果たした選手だ。メジャーリーガーというと、腕っぷしの太い筋骨隆々なタイプが多いと思われがちだが、タイナーはまるで違うタイプの選手だった。あどけない童顔で、しかも体格は華奢。パワーはまるで無く、ホームランが全く打てない選手だった。だが、はつらつとしたプレーに甘いマスクも手伝ってか、子供や女性たちにはなかなか人気があった。

ある日、サブウェイ・シリーズの行われたヤンキースタジアムで、タイナーは三塁側に陣取ったメッツファン達のために、一生懸命ペンを走らせながらサインをしてやっていた。その光景を見て、あるちびっ子ファンが「ジェイソン!ジェイソン!」と、自分も彼のサインを欲しくてタイナーの名前を大声で呼んでいた。でも、その後の一言が良かった。「ジェイソン!ボクの名前もジェイソンだよ!」

大人が言えば「それがどうしたの?」で終わりなんだろうが、ジェイソンはその子供のあまりにあどけない一言に、思わず苦笑していた。その笑顔もまた、ファンをひきつける魅力があったと思う。

タイナーはその後、タンパベイ・デビルレイズへ移籍。さらにツインズへと所属球団を変えたが、あまり活躍の機会を得ていないようだった。しかし、今年はメジャーに昇格後、打撃の調子が良いようだ。それでも非力なのはいまだ解消されていないのか、初本塁打はまだ飛び出していない。
そしてタイナーの活躍を、あの時の子供だった「ジェイソン」はしっかり見届けているのだろうか。
 
2006年07月31日15:43

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2006年7月26日水曜日

夏のスポーツNo.1、ツール・ド・フランス

今年もツールの夏が終わった。最後のタイム・トライアルでの劇的な大逆転の結果、チームフォナックのフロイド・ランディスがマイヨ・ジョーヌを獲得し、自身初の総合優勝。2位には57秒差で、ケスデパーニュのオスカール・ペレイロが入った。
マイヨ・ヴェールはロビー・マキュアン、山岳王者マイヨ・ブラン・ア・ポア・ルージュはミカエル・ラスムッセンがそれぞれ受賞。

正直に言うと、ヤン・ウルリッヒが出場できなくなった時点で今年のツールに対する興味がかなり薄れてしまったのだが、実際にレースが始まってしまうとやっぱり面白い。そういえば、エリック・ザベルがポイント部門で2位に食い込んでいたな。この人も息が長い。

インデュラインの王座が長く続いた後、リースやウルリッヒ、パンターニが総合優勝して、その後またアームストロングの長期政権到来。それが終わった今、これからまた短期の戦国時代がしばらく続いて、その後に安定王者が出てくるんだろうか。
 
2006年07月26日15:37

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2006年7月23日日曜日

Centerか、Centreか

ニューヨーク・ヤンキースは現在、トロント・ブルージェイズと対戦しているが、ブルージェイズが本拠地球場としているのは、開閉式の屋根を持つロジャース・センター。

名前だけだと何のことだか分からないだろうが、以前の名称である「スカイドーム」なら、ご存知の方も多いことだろう。
ところでこのロジャースセンター、どういうスペルなのかというと、"Rogers Center" ではなく"Centre" である。

http://www.rogerscentre.com/

日本人はあるときから、イギリス式の英語ではなくアメリカ式の英語を学校で習った。従ってCenter、color、theater式の表記に慣れている。
しかしカナダは、アメリカ英語の影響を受けながらも母国であるイギリス式英語も堅持しており、センターの書き方はあくまでもCentreなのだ。

ところでセンターというのは、スポーツによく出てくる単語である。特にポジション名にこの名称がよく用いられるのだが、たとえばラグビーのバックスで、攻守の要となるのがセンター(CTB)。このラグビーが英国生まれのスポーツであることからしても、やはりCentreと書くのが自然であろう。
逆にバスケットボールのポジションであるセンターは、Centerと書く方が通りが良いと思われる。
2006年07月23日13:41

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2006年7月16日日曜日

情熱大陸

「情熱大陸」に、立川談志師匠が出演しているのを見たが、談志はサッカー日本代表選手の名前を殆ど知らなかった。というか、サッカーそのものを嫌いなようだった。

そこまでなら、まぁあの世代だからしょうがないね...と、番組を見た人は思うだろう。だが、家元の普通でないところは、実はNBAの大ファンであるということだ。
これは、番組では紹介していなかったけれど、書いているものを見ているだけでも、スティーブ・カーとかジェイソン・キッドとか、あるいはゲイリー・ペイトンなどという名前が普通に出てくる。どうしてバスケを見るようになったのか知らないが、たいしたものだ。
でも談志ファンにとっては、バスケなんて好き嫌いの次元ではなく、そもそも興味の対象でもないような気がするんだが...

だいたい、スポーツ(特に海外スポーツ)と落語、両方のファンなんて人は多分そんなにいないだろう。
新宿末広亭や上野の鈴本辺りに来ている客で、アラン・シアラーだのブレット・ファーブだの、あるいはジョニー・ウィルキンソンだのに興味があるという人は、あんまりいないはずだ。
知っているからえらい、などというわけでは全然ないけどね。
落語やお笑いのファンは、どっちかといえばプロレスK-1など、格闘技の好きな人が多い気がする。


2006年07月16日01:16

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2006年7月12日水曜日

ワールドカップの未来

2006年のワールドカップ・ドイツ大会も、イタリアの優勝という結末に終わった。フランスとのドラマティックなPK戦、それ以上に衝撃的なジダンの頭突きによる退場は、サッカーファンの胸に何時までも残ることだろう。

実際にドイツで大会を観戦された方たちから話を聞いたが、やはり大会運営、スタジアムの雰囲気など、近年にない素晴らしいワールドカップだったようだ。以前の日記で「本寸法のW杯」という表現を用いたが、あながち的外れな批評でも無かったようである。欧州で開催されるからよい大会になる、との保障はどこにも無いけれど、しかしドイツという国は、サッカーにおける伝統においても、また国民性においても、やはり超一級の開催国であったと思う。ドイツ代表自身も健闘を見せてベスト4に残り、大いに大会を盛り上げてくれた。

ただロッシやスキラッチのような、大会を通じて現れるスターは、残念ながら今回も出てこなかった。今後はワールドカップも勝負がますます優先され、試合自体がエキサイティングなものになるのは望めなくなりそうだ。

さて、大会が終わったばかりでいきなり次回大会のことを考えることも無いのだろうが、2010年のワールドカップは、南アフリカ共和国で行われる。ラグビーやクリケットなどで世界の強豪として知られる南アは、代表チームが「バファナ・バファナ」の愛称で知られるサッカーでも、確実に実績を残している。今回は本大会への出場を逃したものの、国内には大きなスタジアムもたくさんあり、開催の資格は十分だった。近年では、都市部の治安が悪化しており不安もあるが、大会中は威信をかけて警備を強化することだろう。

そして8年後の2014年大会は南米大陸、具体的にはブラジルでの開催が有力だ。サッカー王国として世界中にファンを持つブラジルだが、自国開催となると意外にも1950年以来、実に64年ぶりとなる。ヨーロッパでのワールドカップも楽しいが、ブラジルではこれまた、最高の雰囲気でのお祭りになることだろう。南米での開催も1978年以来となるので、アルゼンチンやウルグアイといった国の健闘も予想される。

続く2018年はまだ不透明だが、予想では欧州で再び開催されるのではないだろうか。各大陸での持ち回りを標榜している国際サッカー連盟だが、3回続けて欧州を離れた開催というのも、また考えにくいものがある。今のところ興味を示しているのはイングランド、ベルギー&オランダ共催、スペインというところか。共催には様々なハードルが考えられるのだが、ベルギーとオランダなら歴史的な経緯もあり、EURO2000でも実績を積んだので、それほどの違和感は無い。
イングランドも、2012年のロンドン五輪でスタジアムが整備される事もあり、なによりサッカー母国という特徴もある。スタジアムも既存のものを多く改修して使える利点がある。

他にもアジアから豪州、中国、北米からカナダあたりが開催に興味を示しているが、どうせアジアで開催するなら、今まで実績が無い中東での開催も見てみたい。イスラム圏でのワールドカップは、現状ではなかなか難しいと思われるものの、これはいずれ実現すべき課題であろう。

ということで、ワールドカップは今後も様々な問題を抱えながら、4年に一度開催されていく。今後も、サッカーファンのお楽しみは続くのだ。
 
2006年07月12日01:15

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2006年7月5日水曜日

米国サッカーの未来

今日(7月4日)はアメリカの独立記念日です。
1976年は建国200周年ですから、今年で合衆国が出来て、ちょうど230年という事になります。

今から12年前の1994年、アメリカはワールドカップを開催。そして7月4日に決勝トーナメント1回戦をブラジルと戦い、前半を0-0で折り返すなど健闘しながらも、76分に決勝ゴールを奪われ、そのまま0-1で敗れました。しかし、それまで「サッカー不毛の地」と言われていたアメリカが1次リーグを突破し、ブラジルともほぼ互角の勝負を演じて見せたことは、この国のサッカーにとっては非常に大きな出来事でした。

その後、メジャーリーグサッカー(MLS)が開幕し、女子サッカーもワールドカップや五輪で金メダルを獲得するなど黄金時代が到来。また2002年の日韓W杯では開催国・日本を上回るベスト8にまで進出し、準々決勝ではドイツとも白熱の名勝負を演じるなど、米国サッカーの発展はもはや疑いようのないものとなっています。

しかしそれでも、米国=サッカー不毛の地、というレッテルはなかなか剥がれることがありません。これはなぜでしょう。
一つはMLSが、それほど人気の高いプロリーグではないこと。そしてもう一つは、米国代表チームが日本や韓国代表のように、国民的人気を誇るナショナルチームではないことが挙げられるでしょう。今回のドイツW杯では、米国はチェコとガーナに敗れ、そしてイタリアとは死闘の末ドロー。1勝も出来ずに1次リーグで敗退しましたが、日本やイングランド、またブラジルのように、国内で厳しい批判に晒されるわけでもありません。彼らは良くも悪くも、アイドル的存在ではないのです。むしろ、ミア・ハムのようなスーパースターを擁していた女子代表の方が人気は高かった、と言えるでしょう。

しかしアメリカにはサッカーに限らず、そもそも「国際試合で盛り上がる」という習慣が根付いていません。というか、代表チームというものの存在があまり見えてこないのです。サッカーのブラジル代表や、ニュージーランドのラグビー代表「オールブラックス」のような、その国のスポーツ文化を代表するようなナショナルチームは、アメリカにはどの競技にもありません。国際試合よりも国内のリーグ戦、もっと言えば地元の州内対決の方がはるかに盛り上がります。
海外への人気で言えば、メジャーリーグやNBA、NFLのような本質的には国内のリーグ戦が、海外への知名度、アピール度はずっと高いです。

そして米国代表には、アーチライバルがいません。
ブラジルにはアルゼンチンがおり、イングランドにはドイツがいる。オールブラックスには豪州代表「ワラビーズ」がいます。だがアメリカのスポーツチームには、これと言った宿敵が見当たらないのです。サッカーでは米国の直接のライバルはメキシコですが、しかしこれが米国スポーツにとってビッグイベントになることは考えにくいでしょう。

五輪も昔ほど盛り上がらなくなったのは、米国の宿敵だったソ連が消滅してしたことが原因の一つではないでしょうか。アイスホッケーの強豪であるカナダ代表は、やはりソ連と宿命のライバルであり、今もロシアといい関係を保っているといえますが、これは米国にはそのまま当てはまりませんでしたね。

...というのが従来の考え方でしたが、今回のドイツW杯では、少しずつ変化が見えてきたように思います。米国代表だけではなく、ワールドカップ全体に対する関心が米国内でも徐々に高まっているように感じました。スポーツ専門誌「スポーツ・イラストレーテッド」でも、米国代表のメンバーが表紙を飾りました。またNYのタイムズスクエアでも、アメリカの試合で熱心な応援を送るファンの姿が見えました。この世界一のスポーツ大国が、サッカーの桧舞台の中心に躍り出る日は、実はそう遠くないと思うのですが、さてどうなるでしょうか。

 
2006年07月05日04:00

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2006年7月2日日曜日

ブラジル、イングランド敗れる

さきほどまでUDチャットでワールドカップ準々決勝を観戦していたのだが、優勝候補筆頭のブラジルがフランスに0-1で完敗。それに先駆けて行われたイングランド対ポルトガル戦は両チーム共に得点無くPK戦になったが、ポルトガルが勝ち上がることになった。

勝負自体は熱戦だったので満足がいくものだったが、ワールドカップを代表する人気チームである両国の敗退は、なにか非常に寂しい気がする。

イングランドの場合は、ベッカム、ランパード、ジェラードといった主力が今大会調子が悪く、これまでの試合でも苦戦を強いられていたので、ポルトガル相手でも厳しい試合になるだろうと思っていた。実際に試合が始まってみると、ただでさえ手薄なFW陣なのに加えて、頼みのルーニーが一発レッドで退場を食らってしまうという、予想外の窮地に追い込まれてしまう。さらに主将のベッカムも不本意な形での途中交代と、スコア以上に戦わずして敗れた、という印象が強い。
途中で投入されたレノン、クラウチはなかなか良いプレーをしていたが、ポルトガルから得点を奪うことは出来なかった。イングランドは伝統的にPK戦が苦手であり、最後の結末は英国民もある程度予想できたのではないだろうか。もっと言えば、経験の薄いウォルコットを起用し、実際には使わず、そしてオーウェンが大会を去った時点で、イングランドは優勝を逃す運命にもあったと言える。

そしてブラジル。これまでもワールドカップでは、ブラジルはフランス相手に痛恨の敗戦を何度と無く喫している。1986年のメキシコ大会で行われた、有名な「グアダラハラの戦い」ではPK戦の末敗れ、今回同様ベスト8で姿を消している。そして98年フランス大会の決勝でも、予想に反して0-3の大敗を喫した。
今日の試合は前半0-0で折り返すも、後半12分にジダンのFKに飛び込んだアンリが押し込み、先制ゴールを奪われてしまう。リードを許したブラジルは、以後の30分以上必死の反撃を見せるも、フランスはGKバルテスを中心とした必死の守備でゴールを守りきり、軍配はまたしてもフランスに上がった。

ブラジルはこれまでも、欧州開催のワールドカップで優勝候補と呼ばれながら勝てなかったことが多く、今回も結局優勝までは手が届かないのではないか、という予想をしていたのも確かだが、まさかベスト8で消えるとは、正直全くの予想外だった。今回ばかりは仇敵フランスを撃破すると思っていただけに、ショックも大きいだろう。

ブラジル、アルゼンチン、そしてイングランド...サッカー界のビッグパワーが次々と姿を消し、ベスト4には開催国ドイツ、イタリア、ポルトガル、そしてフランスとヨーロッパ勢がずらり出揃った。ここから決勝に進むのはどの国だろうか。
 
2006年07月02日06:42

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2006年6月29日木曜日

W杯「素晴らしき」ベスト8(改)

たまには、ワールドカップの話題もきちんと書いておこう。
熱戦が繰り広げられているW杯ドイツ大会も、いよいよベスト8が出揃った。
というわけで、今回勝ちあがった晴れの8カ国は以下の通り。

強敵スウェーデンを難なく撃破した開催国・ドイツ。
北中米の雄・メキシコとの延長接戦を制したアルゼンチン。
豪州の攻めを伝統の守りで封じ、劇的なPK勝利のイタリア。
スイスとの神経戦を凌ぎ、PK戦で辛くも残ったウクライナ。
予想通りぐんぐんと調子を上げて来た前回優勝国・ブラジル。
「無敵艦隊」スペインに逆転勝ちを収めたフランス。
伏兵エクアドルに苦戦も、ベッカムのPKで辛勝のイングランド。
大荒れのオランダ戦を制したタレント軍団・ポルトガル。

とまぁ、こんなところだ。

報道にもあるとおり、8か国中6カ国が過去の優勝経験国と、ここまでは強豪が順当に勝ちあがってきた。
もしフランスが1位で通過していれば、スペインも勝ちあがってきた可能性が高かったので、そこだけが誤算といえば誤算と言える。

しかし、アルゼンチンやフランスといった強豪が1次リーグで敗退し、トルコや韓国といったダークホースがベスト4まで残った日韓大会を思うと、伝統国や強豪がキッチリ勝ち上がって、ベスト8で雌雄を決する展開になったのは、非常に喜ばしい。日韓大会で感じた不満やストレスが、今回は無いのだ。

そうやって考えると、やはりワールドカップというものは欧州で開催するのが、本来の「あるべき」姿なのかな、と思ってしまう。特に今回は、サッカー大国・ドイツでの開催と言う事で、スタジアムでの試合の雰囲気もたいへん素晴らしい。これは、日韓大会ではあまり感じられなかったものだ。そういう意味では、まさに本寸法のW杯である。これは、1990年のイタリア大会以来のものだと感じる。1998年のフランス大会も、まぁまぁ良かったけれど...

そりゃアジアや北米、アフリカなどで開催するのも良いけれど、このいい雰囲気だけは今後何十年かかっても醸し出すことは無理だろう。そしてトーナメントの上位に進出するのは、やはり欧州と南米の強豪がメインであった方が、面白いことは間違いない。

一方、98年フランス大会のクロアチア、そして2002年のトルコと、ダークホースが3位に食い込んでいるのも近年のワールドカップの特徴だ。もし、今大会でもこの傾向が続くと仮定するならば、今回は旧ソ連のウクライナが、これにあてはまる資格がある。しかし、一方では、

「3位決定戦に出場した国のどちらかが次回大会の本大会出場を逃す」

というジンクスが継続している。86年メキシコ大会の3位フランス、90年イタリア大会の4位イングランド、94年アメリカ大会の3位スウェーデン、98年フランス大会の4位オランダ、そして日韓大会の3位トルコ...である。強豪国も含まれているだけに、このジンクスはけっこう強力だが、さてどうなるか。順番から行けば、今回は4位の食い込む国の番だ。

いずれにしても、大会は3位決定戦も含めて残り8試合。まだまだ、存分に楽しませてもらえる事だろう。
 
2006年06月29日14:12

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2006年6月25日日曜日

Sweet Sixteen

32カ国で始まったワールドカップも、いよいよ16カ国によるノックアウトステージ、決勝トーナメントが始まった。日本流に言うと「ベスト16」だ。

アメリカのスポーツでは、ベスト16のことをSweet Sixteenなどと呼ぶことがある。代表的なのは、大学バスケットボールの全国選手権、NCAAトーナメントのスウィート16であろう。ちなみにベスト8は「エリート・エイト」そしてベスト4は「ファイナル・フォー」になる。
ワールドカップだと、ベスト16が激突する決勝トーナメント1回戦は「ラウンド・オブ・シックシティーン」が一般的かもしれない。だがちょっと無骨な感じも受ける。
そうやって考えると、Sweet Sixteenってなかなか良いじゃないか。

女の子の16歳の誕生日を、伝統的にSweet Sixteenと呼び、盛大に祝う習慣がある。よく歌の題材として使われるから、ご存知の方も多いことだろう。

中でも、日本で有名なのは、ニール・セダカの「すてきな16才」だと思う。これの原曲が、Happy Birthday Sweet Sixteenだ。♪シャラララ...という軽快なポップスの名曲で、誰もが一度は聴いたことがあるのだが、日本でもカバーされていたはずである。
 
2006年06月25日07:08

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2006年6月23日金曜日

「負け犬」をなじる人々へ

ワールドカップに出場していた日本代表は、今日ブラジルに大敗を喫し、1次リーグ敗退が決定した。

サッカー協会の姿勢、監督への評価、選手起用など、この4年間いろいろ不満はあったが、アジアカップ優勝、そしてアジア予選突破といった結果を出し続け、ドイツへの切符を獲得したことは素直に評価した。そしてこの3試合、苦しんで苦しんで苦しみぬいて、最後に引導を渡されたことは、ある意味実力どおりの結果であり、今までの膿が一気に出尽くしたという事も言える。タイトロープのように危ない橋を渡ってきた我らが代表は、最後の最後で足を滑らせ、奈落へ堕ちた。

もちろん、結果は残念だ。
ただ、今は厳しい3試合を戦った、ジーコ監督や選手一同への労いの気持ちしか出てこない。どうせ今頃は、日本中で、またネット上でも、日本代表への不甲斐ない戦いぶりを「手厳しく批判」する人がごまんといるはずだ。煽るだけ煽ったメディアも、手のひら返したように「戦犯」探しを始めるはずである。

アホか。

選手たちは、実際にリングに上がった。そして敗れた。
彼らは巨額の報酬を得ているプロであり、勝てば名誉も栄光も手に入る。その代わり、負ければくそみそに叩かれる。それも確かに、彼らの人生の一部であろう。だから批判も仕方が無いかもしれない。

でも、これだけはいえる。
ノックアウトを食らった選手を「バカ野郎、なぜ負けた」と野次るヤツよりも、実際にリングに上がって戦ったヤツは100倍立派だ。彼らは実際に勝負に挑んだ。絶体絶命の仲で、逃げ出したくなるような状況の中でもリングに上がり、世界王者と戦い、そしてサンドバッグのようになって敗れた。それでも彼らは戦ったのだ。戦わずに野次っているだけの、「勝ちも負けも無い生き方」を送る人間達と、本当に価値がある生き方をしているのは、一体どちらのほうだ。

ボロクソに言うのも良い。敗因も細かく分析するのも結構だろう。だが、その前に何か、言うことがあるんじゃないだろうか。
2006年06月23日10:44
 
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M&Aの基礎

IT業界人ならおさえておきたい「M&A」の基礎


2006年6月20日火曜日

【追悼・宿沢広朗氏・4】W杯予選

こうして、一躍日本ラグビー界の救世主になった宿沢監督率いるジャパンへの期待は、だんだんとファンの間で上がって行った。1991年には第2回ワールドカップが英仏で開催されることが決まっていたが、第1回大会で全敗に終わりベスト8に残れなかったジャパンは、こんどは予選を勝ち抜いて本大会への出場枠を勝ち取らないとならなかった。

日本が出場するアジア・太平洋予選に出てくるのは、トンガ、西サモア(現サモア)のパシフィック勢に、宿敵韓国の4カ国。そのうち出場権が与えられるのは、上位2カ国のみだった。たいへん厳しい戦いになることが予想されたが、日本にとってラッキーだったのは、この予選が日本で集中開催されることだった。

宿沢監督は相手の情報収集のため、選抜チームを編成して遠征し、トンガらの感触をつかんだ。また予選の行われる1990年にはフィジー代表を招待し、秩父宮で対戦。完敗を喫したものの、仮想トンガ・サモア対策を万全につんでいた。

十分に情報収集を行い、そして対策を立てて練習で訓練を行い、試合で実行する。最終的に、相手に勝つ。
この一見当たり前の事が、日本のスポーツ界は国際舞台においてなかなか実行出来ない。だが、それをキッチリと行っていたのが宿沢ジャパンだったと思う。だからファンは期待し、会場の秩父宮へ大挙して押しかけた。そして、熱い声援を繰り広げた。私は昔を懐かしむものではないが、この頃のジャパンを思い浮かべるたびに、今でも胸が熱くなる。

1990年春、いよいよ運命のワールドカップ予選がやって来た。私は大学4年になり、就職活動も忙しかったのだが、日本の3試合分のチケットを購入し、応援へと秩父宮へ向かった。相手に不足は無い、そしてジャパンも、私の知る限り「史上最強」の充実振りだった。(続く)
2006年06月20日11:29

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2006年6月18日日曜日

【追悼・宿沢広朗氏・3】勝ちまっせ

以後のことは、もうあまり覚えていない。
暑さと、日本の果敢なタックルででスコットランドはハンドリングのミスを重ね、フォワードが悔しさのあまりボールをたたきつけたこと。そして後半も徐々に時間が経つにつれ「まさか...勝てるんじゃないか」という雰囲気が充満してきた。しかし、そう考えだすとおかしなもので、途端に時間が過ぎるのが遅くなる。1分が5分にも、10分にも思えだした。

いらだっていたのは、選手だけではない。スコットランドから来たらしい外国人の観客も、日本人の客と議論を始めていた。今のは反則じゃ無い!みたいな内容だったが、彼らもいま目の前で起こっていることは信じられなかったのであろう。

私は日本の首脳陣や控え選手たちが陣取るすぐ近くに座っていたのだが、ふと横を見ると、フォワード担当の村田コーチが大声で指示を出していた。フォワード特に第3列の身体を張ったディフェンスなしに、この大健闘はありえなかった。村田コーチの厳しい叱咤激励は、まるでこちらまでしかられているような気がして、バテ気味だった私も大声で応援をするようになってていた。

ロスタイム。そしてレフリーの試合終了を告げるホイッスル。場内からは歓声と、そしてうなり声のようなものが聞こえた。28-24.日本が遂に、5ネイションズの強豪であるスコットランドを破った瞬間だった。
後でテレビを確認すると、宿沢監督は後ろから他のコーチにがっしりと抱きしめられ、それだけは無く首に腕が入って「チョークスリーパー」のような状態になり、苦しそうな顔をしていた。だがその瞬間は間違いなく監督にとっても、そして全国のラグビーファンにとっても、これまで経験したことがないような至福の瞬間であった。

その後発行された「ラグビーマガジン」では、日本ラグビーの偉大な指導者だった大西鉄之祐のインタビューが掲載されていた。内容はもう覚えていないが、大西は「宿沢は、『スコットランドには勝ちまっせ』言うとったでしょ」と言ってたのを覚えている。

...大西は奈良出身の人なのだが、自分の会話の中に登場する人物に関西弁を話させるのは、関西人がたまにやる、一種のくせのようなものだ。宿沢は関東の人だから、勝ち「まっせ」とは恐らく言わなかったはずである。

...しかしそれはともかく、大西にとってもこの勝利は、本当に嬉しいものだったのではないだろうか。オールブラックス・ジュニアをアウェーで破り、ホームでもイングランド選抜と3-6の名勝負を演じて見せた「大西ジャパン」の、あの強さが帰ってきたのだ。しかもそれが愛弟子の宿沢によりもたらされたのだから、嬉しさもひとしおだったに違いない。(続く)

<文中敬称略>
2006年06月18日09:44

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【追悼・宿沢広朗氏・2】日本大健闘

試合当日は5月末にしては、かなり蒸し暑い日曜日の昼下がりだったと思う。実は私は、キックオフを見逃して前半数分過ぎてから入場したのを覚えている。日本のプレースキッカーを務めていたのは、サントリーに所属する山本という背の高いフルバックだった。彼がペナルティゴールを決めて、日本がリードを奪ったところで私は着席した。

この時の日本のメンバーをざっと思い出してみると
1.太田(NEC)2.藤田(日新製鋼)3.田倉(京産大)4.林、5.大八木(以上神戸製鋼)6.梶原(東芝府中)7.中島(NEC)8.ラトゥ(三洋電機)
9.堀越(早大)10.青木(大東文化大)11.吉田(明大)12.平尾(主将・神戸製鋼)13.朽木(トヨタ)14.ノフォムリ(三洋)15.山本(サントリー)だったと思う。

この初夏のような蒸し暑さが日本に幸いしたか、スコットランドはなかなか日本との得点差を詰めることが出来ない。なにしろフルバックのグラスゴーという選手がキッカーを務めていたのだが、イージーなキックをミスしまくっていた。

そのうち、日本にナイストライが生まれた。左オープンに展開すると、ボールを受けた左ウィング吉田が快走。相手ディフェンスを十分にひきつけてから絶妙のショートパントを蹴り、ボールがインゴール内に転がり込む。虚を疲れたスコットランドのバックス陣が急いで戻ろうとするのだが、吉田は快足を生かして一足早く相手ゴールにエリアに侵入し、ボールを押さえてトライを奪った。吉田は立ち上がり、同じく学生の堀越と抱き合って喜んだ。会場の雰囲気もこれで一気に盛り上がった。

2006年06月18日09:37

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【追悼・宿沢広朗氏・1】新監督

1989年、私は大学生だった。
当時のラグビー日本代表、通称「ジャパン」は、今と同じような低迷期を迎えていた。日比野弘監督が指揮を取っていたのだが、アジア大会ではライバルの韓国に敗れると、国内の試合でも敗戦が続き、「桜のジャージー」のイメージは、すっかり地に堕ちていた。

そんな時「宿沢氏が代表新監督に就任」というニュースが新聞紙上をにぎわせた。
宿沢広朗...この人は、私のような若いラグビーファンにとってはまさに「伝説の存在」であった。早稲田大学黄金時代のスクラムハーフとして活躍した宿沢氏は、卒業後住友銀行に就職して、ディーラーとして活躍。以後は潔くジャージーを脱ぎ、ラグビーの第一線からは身を引いている状態だった。

伝説の男が、遂にフィールドへ帰ってくる。
これは期待半分、不安半分と言うのが正直な心境だった。
海外勤務などの経験があり、国際ラグビーの事情には明るいにせよ、現在のラグビー界の動きに詳しくない彼が、そして大学チームでさえ指揮を取ったことの無い人が、果たして代表チームの監督なんて出来るのか?どう考えても、いきなりの監督就任は疑問符が付くものであった。

新生・宿沢ジャパンの初戦は、なんと北半球の雄・スコットランドとの対戦に決まった。その前年には、確かアイルランド学生代表にも負けていたはずの日本代表が、いきなり海外のナショナルチームとテストマッチを行って、勝てるはずが無いじゃないか...?私の不安はさらに募った。

そんなある日の朝、西武新宿駅の地下街を歩いていると、日本vsスコットランド戦のチケット、本日発売と言う張り紙がしてあった。私はなんとなく胸騒ぎを感じて、チケットを1枚だけ購入した。しかし、席種はS席。学生の身分ではまず買うことの無い、メインスタンドの特等席だ。どうせ勝つはずの無い試合、そのチケットをなぜ買ったのか、今でもよく分からない。ただ、その時は何か漠然とした「予感」を感じたのを覚えている。(続く)

<文中敬称略>
2006年06月18日07:20

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宿沢氏急死

元ラグビー日本代表監督の宿沢広朗氏が急死されました。
登山中の心筋梗塞だそうです。

あまりに突然のことで何も言えませんが、また気持ちを整理して「宿沢ジャパン」の思い出を書きたいと思います。
 
2006年06月18日04:14

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2006年6月16日金曜日

コハダか、エンガワか

今日は仕事も夕方にサクっと終わり、久しぶりに行きつけの日本料理店へ行った。 

とりあえず生ビールを飲みながらつまみを頼もうと思うと、メニューに「エンガワぽん酢」と並んで「コハダの刺身」がある。 
ミクシィで「エンガワ食べたい」コミュニティに入っている者としては、ここはやっぱりエンガワをつまむしかないか、と思ったのが、実は何をかくそう、コハダのような光りモノに目が無い。ちょっと考えたあげく、コハダを頼んだ。 

今は無き古今亭志ん朝師が亡くなった時、雑誌『笑芸人』で追悼号が発行されたのだが、そこに師の行きつけのすし屋さんのお話が出ていた。その店に志ん朝が初めて来た時、熱燗とコハダの刺身を注文した。
志ん朝は何も言わず飲んでいたが
「締めには、コハダを(寿司で)握ってもらいましょう」
と言ったらしい。
これを聞いて店主は「さすが、粋な江戸っ子だ」と感心したそうだ。 

私は江戸っ子でもなんでもないが、やはり酒を飲んでいて、美味いコハダがあると嬉しくなる。生ビールは一杯だけにしておいて、あとは日本酒に切り替えた。
今日はちょっと涼しかったので、冷酒ではなく、熱燗にしておいた。 

2006年6月14日水曜日

タレントと噺家

たとえばあなたが落語のファン、あるいはマニアならば、その代表的存在として志ん生、文楽、円生、志ん朝、小さん、談志、そして米朝といった名人たちの名前をすらすらと挙げることが出来るだろう。これらの人々はまさに昭和・平成を代表する古典落語の本格派であり、落語という芸能が続く限りずっと語り継がれていく人たちだ。 

だがあなたがそれほど落語好きではなく、興味も無ければ、こういう人たちの名前はまず出てこないに違いない。ずばり言えば落語=大喜利、または謎かけ(○○とかけて△△ととく、そのココロは...)であり、もっと言えば「笑点」であることだろう。だから「落語家」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、この40年続く国民的バラエティ番組のレギュラーたちであるに違いない。あるいは関西の人気者である三枝、文珍、そして鶴瓶ではないだろうか。 

本芸を極めるのか、あるいはタレントとして顔と名前を売るのが大切なのか。これは両方とも大事だろう。落語家である以上、落語をやるのは当たり前の話であり、ここがおろそかになっていれば話にならない。 
かといって、誰にも知られない無名の存在のままでは、これも芸人として悲しい話だ。なんだかんだ言って「売れてナンボ」が芸能界である。だから、マスコミでもある程度名前の通った売れっ子であり、そして落語の道にもまい進するというのがもっとも相応しいコースであろう。 
若き日の談志、志ん朝、米朝、そして仁鶴は、全てこれらの事をきちんとこなしてきた人たちだ。小朝や志の輔といった比較的若い世代の人々も、ここに入れてよいと思う。 

だが...これからの噺家に、果たして同じ事が出来るだろうか?今の30-40代前半の、もっとも勢いが乗っている中堅・若手達にも、落語が上手い人はたくさんいる。いや当方はこういう人たちの「今」を聴いている訳ではないので「いるらしい」と書いた方が良いだろう。だがこの人たちとて、マスメディアの世界で派手に売れているわけではない。いうなれば「知る人ぞ知る」というクラスに留まっていると見た方が良い。いま流行の、いわゆる「お笑い」というジャンルの世界の売れっ子相手に、現代的なセンスとスピードで、張り合える人などまずいないであろう。 

極端な話、そういう世界でワッと売れるようなセンスと実力の持ち主は、もう落語家になろうとはしないのではないだろうか。 

言うまでも無く、落語家は「仕込み」の時間が長い。そして売り出すのも概して遅い。下手したら40代でも「若手」だ。どう考えても、今の世の中のスピードと合っていない。お笑いとはスポーツに似た所がちょっとあって、40歳を境にスピードとセンスがたいてい衰えている。野球で言えば、速球派でもかならず球速が落ちてくるのだ。そこをどう補うかは本人次第なのだが、噺家の場合は、この球速で勝負できなくなってからがむしろ大事だったりする。分かりやすく言えば「熟成」してくる、と言っても良いだろう。 

だから40歳前後まではテレビで、センスとスピードで勝負し、それから「本芸」である落語の道へ...と出来れば一番良いと思う。逆は、もう現代ではムリだろう。40まで落語をみっちりと勉強して、それからメディアの世界で売れることはかなり難しい。 
鶴瓶などは、50歳辺りから古典落語への回帰が強まり、かなりの成果を上げている様だが、これはやはり師の人並みはずれた実力と精進がなせる業だと思う。そして考えてみると、今まで多くの人気者を輩出してきた上方落語の世界にも、どうも30~40代の人材が不足しているように思える。鶴瓶、そして落語の世界からは外れたが、明石家さんまなどのようなトップクラスの人気と実力を兼ね備えた人は、もう落語の世界からは出てこないと考える方が自然だろう。 


そう考えると、やはり落語はこれからも「伝統芸能」「古典芸能」の道をまい進するしかないのかもしれない。落語という芸能は、他の芸種にも無いしたたかな力を持っていると信じているが、そういう意味では心配をしている。って、ファンの端くれが心配しても仕方が無いか...


2006年6月13日火曜日

スウェーデンの臭い缶詰

最近『探偵ナイトスクープ』をビデオで見ているんですが、この中でシュールストレミングという、スウェーデンで作られている魚の缶詰を紹介していました。これはニシンを発酵させて作った食品なんですけど、世界一臭い食べ物のひとつとしてその分野では?かなり有名らしいです。 

以前にも同番組で取り上げられたことがあるそうですが、開封前から缶詰の中でガスが出て、プーッと膨らむくらいに強力。そしてひとたび缶を開けると中から臭い液が飛び出し、室内はむせ返るような強力なにおいが充満するとか。番組内でも試食していましたが、オエッと言いながら食べていました。ただ、口にいれたは良いものの、なかなか飲み込むことが出来ない人もいましたね。と思えば、美味い美味いとぺろりと平らげた道行くオジさんもいたりして、味覚というのは人それぞれなんだなぁ、とつくづく思いました。

人によってはそういう臭い食べ物を珍味として好き、というマニアもいると思うのですけど、私はもうああいう映像を見ているだけで気分が悪くなってしまいます。いい匂いの食べ物だって世の中にはたくさんあるのだから、何もムリして臭いものを食わなくても良いんじゃないか、と思うのですが... 

ただ私も、最初は納豆の臭いが嫌いで食べることが出来なかったんですけど、食べるようになったらむしろあの「匂い」が好きになりましたからね。シュールストレミングを好んで食べる人は、逆に匂い控えめなタイプのものだと物足りないのかもしれません。


2006年6月10日土曜日

二代目三遊亭円馬

落語の話をしていて時々残念に思うのは、関西の落語ファンの中に、東京の落語を認めない人が時々いることである。 
これだけ東京と大阪の距離が縮まり、大阪のお笑い芸人が東京に進出しているのにもかかわらず、当の大阪側で東京を認めない、というのは一体どうしたわけか。プライドか、コンプレックスか。あるいは両方であろう。 
ファンがそんなものを持っていても仕方が無いと私は思うのだが、妙にこだわる人はこだわる。 

人間国宝・桂米朝師が朝日新聞のサイトで、明治・大正期に活躍した二代目三遊亭円馬という噺家について語っている。 

http://www.asahi.com/culture/update/0609/020.html (リンク切れ)

米朝師匠も書かれているが、この人は不世出の名人・三遊亭円朝の直弟子であった。円朝が、目指した寄席改革が上手くいかず一線を退いた時に、自分も東京の寄席から退いて大阪へやって来た。 
二代目円馬は、大阪では桂派という有力なグループに当時属したのだが、やはり東京の噺は、なかなか簡単に受け入れられることは無かったらしい。 
しかしこれは拒絶反応というよりも、東西の落語の違いから、おそらく聴きどころのようなものを理解されなかったのではないか、と思う。 

そこで当時、桂派では特別な落語会を定期的に開催して、円馬師匠の優れた噺を、大阪でも受け入れられるようにじっくり聴いてもらう機会を持った。 
どうするかと言うと、まず人気者達が数名出演して落語を演じ、その後に円馬師匠がトリ前でじっくりと長講一席。そして最後は桂の総帥・二代目文枝や南光が出るというプログラムだったようだ。実力者と人気者の間に挟まれて、これなら客もじっくり聴くというわけだ。 

以来、大阪でもその力量を高く評価された円馬は、大阪にそのまま骨を埋めて「空堀の師匠」と呼ばれ、大正中期にこの世を去っている。円朝の有力な後継者候補が大阪に住んだのだから、やっぱり当時としても画期的なことだったんじゃないだろうかと思う。 
そして米朝師匠も書かれている通り、決して妥協したりせずに、自分の持ち味をそのまま生かして大阪の客にぶつけたと言うところに、ゆるぎない芸への自信を感じることが出来るのだ。そしてそれを受け入れた、当時の大阪の客にも感動させられる。 

もちろん現代でも、東京の落語を素直に評価することの出来る上方落語ファンは沢山いる。そういう人が、今後もどんどん増えて欲しいと思う。 

2006年6月9日金曜日

新藤兼人氏

納得するまで求めて、得た自信 
先が見えないなら根本からやり直す



巨匠溝口健二監督に師事していた時に、私は自分のシナリオを認めてもらえませんでしたから、大変に落ち込み、書くことをやめて根本からやり直さなくてはと考えました。そして『近代劇全集』43巻と『世界戯曲全集』の両方合わせて80巻を約1年半かけてすべて精読したのです。まるで学校へ行ったようなものですが、世界にはすごい人がいる、及びもつかない戯曲家が既に多く存在している、と目を開かされました。


http://www.asakyu.com/column/?id=39

この話は、新藤氏の回顧談に必ずと言ってよいほど出てくる。
でも何度読んでも感銘を受ける、とてもよい話だと思います。
巨匠でも壁にぶち当たり、一からやり直すような覚悟で勉強をした時期があった。
そんな事を知るだけでも、なんだか勇気が湧いてきますね。

また新藤氏は、たとえ脚本の注文が無くても毎日書き続けていたといいます。毎日書き続けることで映画への思いを燃やし続けることが出来るし、また突然に注文があっても「こういうものがあります」とすぐに出すことが出来る。
才能が無いの、何のという前に、まずは続けろってことですね。

2006年6月7日水曜日

ラグビーリーグを...(3)

...ということなんですけど、このミクシィのリーグ・コミュニティに参加している方の多くはぴっかぶーさんをはじめ、オーストラリアに在住の日本人だと思います。NRLは世界最高峰のリーグ組織ですが、やはりリーグの迫力あるプレーと、地元での熱狂的な人気に直接触れて、リーグのファンになる日本人の方も多いんですよね。

これは私のような人間にとっては興味深いことなんですが、たとえばカナダに住んだ方はNHL(アイスホッケー)の魅力にはまり、豪州でもメルボルンに住んだ方は、今度は当地で人気のオージー・ルールズ・フットボールのファンになったりする。
ニュージーランドだと当然、オールブラックスを熱狂的に応援していますし、もちろんアメリカに住んで、アメリカン・フットボールのファンになる人もけっこういます。

日本人はかなりの雑食民族だと思いますが、スポーツに関してもけっこうその傾向があるんだと思いますね。
そういう熱気が、世界中の各地からダイレクトに伝わってくるのも、このミクシィの面白いところだったりすると思います。

昔、ラグビーマガジンでリーグの特集を何度か組んだことがあるんですけど、そのときに載っていた逸話として、リーグを日本で興行しようとした人が何を間違えたか、日本ラグビー協会の幹部に話を持っていってにらまれたらしいです。

ただ1996年には駒沢競技場で、この豪州リーグの強豪チームによるエキジビションマッチが行われました。私も観に行ったんですが、あまりルールの説明とかがなくて観衆は戸惑っていましたね。まあ見ていれば理解できますが。
しかし宣伝が行き届かず、ファンの注目は低かったですね。
2006年06月07日11:46

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ラグビーリーグを...(2)

ということで現在では、異なる二つのラグビーが混在しています。

結論から言うと、ラグビーユニオンとラグビーリーグの「100年戦争」は、ラグビーユニオンの勝利に終わりました。あるいは、終わりつつあります。と言っても、リーグの歩みが間違っていたわけではなく、むしろ正しかったと言えるでしょう。ラグビー側がこの10年間やっていることは、リーグがこの100年かけて行って来たことを踏襲しているとさえも言えるのです。

ただ、リーグというのは盛んな地域があまりにも少ない。かんたんに言えば、シドニーやブリスベンを中心とする豪州東海岸地域と、リーグの「ハートランド」とでも言うべきイングランド北部に限定されてしまいます。イングランド北部はサッカーの中心地帯でもあるので、本当にリーグが人気ナンバーワンの地域は、極論すれば豪州の一部だけなのです(ただし、この地域では、リーグの人気はいぜんとして凄いものがあります)。

一方のラグビーは、1987年からスタートしたワールドカップが順調に発展、ビッグビジネスになりました。いまや両者の競技としての地位や注目度は、世界的に見れば月とスッポンでしょう。リーグの関係者は、この現状に危機感を抱いていると思います。今すぐリーグが無くなる、というわけではありませんが、長い年月をかけて「静かなる死」を迎えるのではないか、ということが言われておりました。

だがリーグも、2008年には久しぶりにワールドカップを開催します。そして少しずつですが、リーグをプレーする国も増えてきています。日本代表も、ワールドカップ予選に参加します。本大会出場への道もわずかではあるけれどあるのです。これからリーグがどのように巻き返していくのか、次回ワールドカップを成功へ導くことが出来るのか。それを見るのがたいへん楽しみであります。
 
2006年06月07日11:12

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ラグビーリーグを知ってるかい?(1)

私がミクシィに入会できたのも「ぴっかぶー」さんにお誘いいただいたからなんですけど、その縁もあってこちらでは、ずっと豪州ラグビーリーグ(NRL)のコミュニティにずっと厄介になっております。私はこの15年あまり、日本ではまったく無名にちかいこのスポーツの大ファンなのです。

ではラグビーリーグ(以下リーグと略す)とは何か、と申しますと、これは日本で一般的に行われるラグビー(=ラグビーユニオン、以下ラグビーと略す)とは違い、1チーム13名で行われる競技のことです。詳細は省きますが、英国で19世紀の末にラグビー界が分裂し、主にイングランド北部のクラブが独立して独自の発展を遂げていった。これがオーストラリアやニュージーランド、フランスなどにも伝わり、現在に至っているわけです。
日本では語順をひっくり返して「リーグラグビー」という言い方をよくしていましたね。

厳しいアマチュアリズムを20世紀末まで固辞したラグビーとは別に、リーグはいちはやくプロ化し、観客にアピールしやすい分かりやすいルールに改正し、激しいコンタクトプレーや技術的にスキルの高い試合を展開していました。
またラグビー界の大物有名選手たちと契約を結び、リーグへ引き抜くと言う事態が80年代には頻繁に発生していました。
当時は日本でもリーグの試合を見られる機会は皆無だったので、このリーグへの転向と言うのは海外ラグビーファンにはけっこうショッキングな出来事でした。特に日本では、ラグビーのアマ主義を素晴らしいものとみなす人が多かったため、リーグを敵視する人が多かったのも確かです。

だが1995年以降、ラグビー界もオープン化。以後、世界はどどっとプロ化になだれ込み、この流れに乗れなかった日本はあっという間に国際舞台で弱体化していきました。
またリーグへ去った選手もラグビーへ復帰、さらに今度はラグビー側が、リーグの有力選手を高額の契約金(と言っても、北米や欧州のメジャースポーツに比べれば嘘みたいに安い)で引き抜く、あるいは勧誘すると言う事態が現在まで続いています。

2006年06月07日10:55

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2006年6月6日火曜日

ドジャースタジアム(3)

では、ここで仮定の問題。

もしあなたが、一生に一度だけ、生でメジャーリーグの試合を見るチャンスを得たとする。そのとき、どこの球場に行くべきだろうか?
ディマジオがプレーしていたヤンキースタジアムだろうか。イチローや城島のいる、マリナーズの本拠地セーフコフィールドであろうか。それとも熱狂的なファンの声援が楽しい、ボストン・レッドソックスのホームであるフェンウェイ・パークだろうか。

もし、特別に贔屓のチームや選手がいなくて、日本人選手のプレーが見られなくともよいのなら、お奨めはドジャースタジアムだ。球場のデザインが良い、そしてドジャースのホームのユニフォームが良い。そして、サザンカリフォルニアの、あの抜けるような青空がもっと良い。だから「ドジャースタジアムのデーゲーム」と特定すべきかも知れない。もちろんナイトゲームで、薄暮の時間帯も魅力的だろう。今は斉藤隆投手も在籍しているから、運がよければ登板試合を見られるだろう。

独断と偏見だが、あの球場こそが、私の中にある「大リーグ」のスタジアムである。私が「大リーグ」の魅力にはまった70年代も、そして現在も、ドジャースタジアムは変わらぬ魅力を保ち続けていると思うのだ。
ニューヨークやシカゴに比べると、公共交通機関に乏しく、治安面での不安もあるにはあるが、そういう問題をクリア出来れば、という前提で読んでいただきたい。
2006年06月06日14:55

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ドジャースタジアム(2)

それでも、メジャーリーグの球場で試合を見るというのは、日本人にとって楽しいイベントの一つである。
先日も中西部に住む旧友が、シカゴへホワイトソックスの試合を観に行った。もちろん、お目当ては井口資仁二塁手の活躍だ。だが運の悪いことに、その日井口はけがでスタメンを外れてしまった。それも試合前に足に痛みを覚え、急遽欠場が決まったのだと言う。

友人達の落胆振りを考えると本当に心が痛むが、これも野球観戦につきもののリスクであろう。お目当ての選手が、試合に出ないと言うことはよくあることだ。選手にも罪はない。
それでも、数年に一度の野球観戦しかしない人が、見たい選手を見られなければがっかりするのは当然のことである。

昔、ジョー・ディマジオが痛めた足を引きずりながら試合に出たときのこと。どうして試合を休んでけがを治さないのかと訊かれて、
「きょう球場には、一生に一度しか野球を見に来ない人が来るかもしれない。もし私が今日の試合を休んだら、その人は一生ディマジオを見なかったことになってしまう。その人のために、私はプレーする」
と語ったと言う。驕りだろうか、違う。これがスーパースターの誇りであり、義務感なのだ。

2006年06月06日14:26

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ドジャースタジアム(1)

野球が好きなので、アメリカに住んでいる人からもメジャーに関する質問をよく受ける。
アメリカに住んでいるからといって、メジャーリーグに自然と詳しくなれるかというと、そんな事は全く無い。むしろ疎い人の方が圧倒的多数だろう。
「日本人選手」というフィルターを外してしまえば、メジャーリーグというのは一般の日本人にとって縁遠いものである。それに日本人がバリバリと、レギュラーで活躍しているのを身近で見ることが出来る都市は、本当に限られている。

知人に野球好きな人がいて、巨人ファンだった。この人はニューヨークで勤務していたのだが、「じゃ松井のヤンキースでの活躍は見るのが楽しいでしょう」と言ったら、そうでもないと言う。「会社から帰って、巨人の試合を見るのが楽しみだったんだよ」という。松井はもう、それほど眼中になかった。巨人が勝った(負けた)ニュースを見て、酒を飲むのが楽しみだったと言う。
私は、こういう人が好きだ。そんなに熱狂的な野球ファンでなくても、生活の習慣のなかにプロ野球があって、その結果に一喜一憂している。じぶんのひいきチームのスターが「メジャー」に移籍しても、そんなに気を惹かれない。それはそれ。活躍してもらいたいけど、自分の生活スケジュールの中に割り込んでくることは無い。たとえニューヨークに住んでも。
良い悪いの問題ではない。好みの問題だけど、私はそういう「普通さ」「平凡さ」を、心地よく思うタイプの人間なのである。

2006年06月06日13:27

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2006年6月5日月曜日

立川志の輔独演会

今夜はニューヨークの郊外で行われた、立川志の輔独演会へ行ってきた。 
会場はパフォーミング・アーツセンターといって、市街中心地にあるなかなか立派なホール。椅子も非常にゆったりとしていて、長時間座っていても疲れなかった。 
もちろん日本のような高座は望めないが、それでも舞台からちょっと高くなった台に座布団を敷いて、そこで落語を出来るようなステージ設定になっていた。 

昨日はデトロイトでの公演だったそうで、志の輔師はブロードウェイによくミュージカルを見に来ているとの事。 
まずは前座で志の春さん。師匠の3番弟子だそうですが、なかなか口跡もよく、「錦明竹」をきっちりと演じて笑いをとっていた。聞けば子供の頃当地で住んでいた?とかで、いわば「故郷へ錦」を飾ったことになる。しかもアメリカの超一流大学を出て、日本の某総合商社で勤務していたというなかなかユニークな経歴の人だった。 

そして今夜の主役、志の輔師登場。観客の反応をうかがっていたのかたっぷりとマクラを語り、ちょっとベタな?小噺で笑いを取っていた。今日は家族連れが多かったので良かったと思う。そして自作の噺「親の顔」。これは家族向けに配慮した噺のチョイス、かもしれない。面白かった。 

そして休憩無しでジャグラーのダメじゃん小出氏。なかなか脱力系の笑いだが、目先が変わるし楽しい色物だった。 
そしてトリはもちろん志の輔師再登場で「妾馬(八五郎出世)」。と言ってもストーリーは、通常と異なるように思われる。ここにも志の輔流の創意工夫があるのかもしれない。八五郎の憎めないキャラをはじめ、出てくる人物が皆よい人で、観客もじっくり聴き込んでいた。 

サゲを言い終わって拍手が来ても緞帳が下りるわけではなく、そのあと師匠からちょっとしたトークがあって、最後に出演者総出で三本締めにて終わった。 
まぁ落語にそれほど精通している観客ではないし、司会の人もいるし、いろんな意味でユニークではあったが、くせのある客層ではないので、素直に笑える良い会だったと思う。
しかし、志の輔師匠を聴いたのは一体何年ぶりだろう?もはや大御所の風格が出てきている。声はかなり渋いが聞き取りにくいわけではなく、むしろ聴いていて心地よい。ところどころ、師匠の立川談志・立川流家元を彷彿させる言い回しなどもあって、良いところがしっかりと継承されているんだと思った。 
マニアックに走らずそれでいて単なるタレントでなく、こうして古典も新作も出来るオールラウンドなプレイヤーなのだから、現在の人気も改めて納得できるものでした。非常に楽しめる結構な会だった。 

落語と言うのは、それそのものに力がある芸能だと思いますけど、力のある演者がやると余計にパワーを感じます。そして聴き終ったあとは満足感だけでなく、なんともいえない力を授かったような気にもさせてもらえます。 

落語は、特に古典は「古い噺をそのまま演じているだけ」と錯覚する人も多いと思いますが、決してそんなことはないですね。そんな人も中にはいるんでしょうが、やっぱり一から創り上げていくもんだと思います。そのフォーマットを借りているだけで、基本的には演者の力量ですからね。面白い噺だって、ダメな人がやったらやっぱりダメですからね。 


2006年6月4日日曜日

昨日も雨、今日も雨

昨日からニューヨークはまとまった量の雨が降っています。
昨日はバスに乗って帰宅したのですが、道も大変な渋滞でなかなか家にたどり着くことが出来ませんでした。
シェイスタジアムで予定されていた、メッツとジャイアンツの試合も当然お流れ。

それで今日にダブルヘッダーということに予定が組みなおされたんですが、今日も昨日同様の雨。第1試合は午後1時半に予定されていたんですが、プレーボールがかかったのは結局4時ごろになってしまいました。
この試合ではボンズが出場し、盛大なブーをいただいておりましたが、2安打打って気を吐いておりましたね。大きなヤマを超えて、けっこうリラックスしておりますね。
第2試合はいま始まっています。トム・グラヴィンが先発。

その間にボルティモアではヤンキースの試合があったんですが、今日もヤンキースが競り勝ちました。マリアーノ・リベラも腰の調子が思わしくなく、カイル・ファーンズワースは連投のため登板回避で、なんとチェンミン・ワンが臨時クローザーをやったんですけど、ようこんな起用で勝ったと思いますよ。今季はなんと言っても、スコット・プロクターが競った場面で使えるようになったのが大きいです。
第2試合は午後7時半ごろ始まっていたと思いますけど、それでも延長に突入していましたねw。
選手も大変ですわな...スタンドも殆ど観客は帰っていましたけど、グラビンは相変わらず良い内容のピッチングでした。

ヤンキースもなんだかんだ言って若手がくすぶっていましたけど、去年・今年とその辺が出場機会を得てきているので、そういう意味では怪我の功名ですね。問題はアンディ・ぺティットのように長くローテで活躍できる先発と、そしてマリアノ・リベラの後継者をいかに育てていくか...これが一番たいへんな問題になりそうです。リベラ級はそうそう簡単には出てこないですけどね。

メッツはといえば、スコット・カズミアーという貴重なエース候補をわざわざデビルレイズに放出していますからね。そういう失敗がなければ、今は良い組織になってきているとは思います。
今夜は点差が付きましたが、最後にリベラが登板していました。
1996年ウェッテランドが抑えでリベラがセットアップでした。97年は伊良部がヤンキースに移籍したシーズンでしたがこの年はインディアンズに敗れ、翌年から3連覇ですね。

今年はファーンズワースが主に8回を投げていますが、速球は申し分ないものの安定度に難アリです。やはり去年までのトム・ゴードンは酷使に耐えて使い勝手のよい人でしたが、今年はフィリーズでクローザーを務めています。
上にも書いたとおり、去年までは敗戦処理だったプロクターが成長しています。あとオクタビオ・ドテルがいるんですけど、いまはリハビリの最中です。
2006年06月04日09:39

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2006年6月3日土曜日

ヤンキースvsタイガース4連戦

けが人でボロボロのヤンキースなんですが、出てきた香具師がみなよく頑張っています。メルキー・カブレラも松井に代わってレフトに入っていますけど、この4連戦全ての試合でヒットを打ってますし、昨日の試合でも見送ったらスタンドインの当たりをジャンピングキャッチしておりました。

昨日の試合は中継ぎのスコット・プロクターがナイスピッチでリードを守っていたんですが、最終回にカイル・ファーンズワースが<s>予定通り</s>大炎上してしまい、ホームのタイガースが逆転アディオス勝ちを収めました。パッジがサヨナラのランナーだったんですが気合入りまくり、打倒ヤンクスへの激しい闘志を感じましたね。

しかし、その前の3試合はヤンキースが取りました。特にRJが珍しく好投したのが大きかったですな。3戦目の先発だったムースも完封こそ逃しましたが、9回にマウンドに来ようとベンチから出かけたトーリを、鬼の形相で制してそのまま投げきりました。気合満点でしたね。

2006年06月03日07:11


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My Winding Path to English Mastery