こうして、一躍日本ラグビー界の救世主になった宿沢監督率いるジャパンへの期待は、だんだんとファンの間で上がって行った。1991年には第2回ワールドカップが英仏で開催されることが決まっていたが、第1回大会で全敗に終わりベスト8に残れなかったジャパンは、こんどは予選を勝ち抜いて本大会への出場枠を勝ち取らないとならなかった。
日本が出場するアジア・太平洋予選に出てくるのは、トンガ、西サモア(現サモア)のパシフィック勢に、宿敵韓国の4カ国。そのうち出場権が与えられるのは、上位2カ国のみだった。たいへん厳しい戦いになることが予想されたが、日本にとってラッキーだったのは、この予選が日本で集中開催されることだった。
宿沢監督は相手の情報収集のため、選抜チームを編成して遠征し、トンガらの感触をつかんだ。また予選の行われる1990年にはフィジー代表を招待し、秩父宮で対戦。完敗を喫したものの、仮想トンガ・サモア対策を万全につんでいた。
十分に情報収集を行い、そして対策を立てて練習で訓練を行い、試合で実行する。最終的に、相手に勝つ。
この一見当たり前の事が、日本のスポーツ界は国際舞台においてなかなか実行出来ない。だが、それをキッチリと行っていたのが宿沢ジャパンだったと思う。だからファンは期待し、会場の秩父宮へ大挙して押しかけた。そして、熱い声援を繰り広げた。私は昔を懐かしむものではないが、この頃のジャパンを思い浮かべるたびに、今でも胸が熱くなる。
1990年春、いよいよ運命のワールドカップ予選がやって来た。私は大学4年になり、就職活動も忙しかったのだが、日本の3試合分のチケットを購入し、応援へと秩父宮へ向かった。相手に不足は無い、そしてジャパンも、私の知る限り「史上最強」の充実振りだった。(続く)
mixi
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