2006年6月10日土曜日

二代目三遊亭円馬

落語の話をしていて時々残念に思うのは、関西の落語ファンの中に、東京の落語を認めない人が時々いることである。 
これだけ東京と大阪の距離が縮まり、大阪のお笑い芸人が東京に進出しているのにもかかわらず、当の大阪側で東京を認めない、というのは一体どうしたわけか。プライドか、コンプレックスか。あるいは両方であろう。 
ファンがそんなものを持っていても仕方が無いと私は思うのだが、妙にこだわる人はこだわる。 

人間国宝・桂米朝師が朝日新聞のサイトで、明治・大正期に活躍した二代目三遊亭円馬という噺家について語っている。 

http://www.asahi.com/culture/update/0609/020.html (リンク切れ)

米朝師匠も書かれているが、この人は不世出の名人・三遊亭円朝の直弟子であった。円朝が、目指した寄席改革が上手くいかず一線を退いた時に、自分も東京の寄席から退いて大阪へやって来た。 
二代目円馬は、大阪では桂派という有力なグループに当時属したのだが、やはり東京の噺は、なかなか簡単に受け入れられることは無かったらしい。 
しかしこれは拒絶反応というよりも、東西の落語の違いから、おそらく聴きどころのようなものを理解されなかったのではないか、と思う。 

そこで当時、桂派では特別な落語会を定期的に開催して、円馬師匠の優れた噺を、大阪でも受け入れられるようにじっくり聴いてもらう機会を持った。 
どうするかと言うと、まず人気者達が数名出演して落語を演じ、その後に円馬師匠がトリ前でじっくりと長講一席。そして最後は桂の総帥・二代目文枝や南光が出るというプログラムだったようだ。実力者と人気者の間に挟まれて、これなら客もじっくり聴くというわけだ。 

以来、大阪でもその力量を高く評価された円馬は、大阪にそのまま骨を埋めて「空堀の師匠」と呼ばれ、大正中期にこの世を去っている。円朝の有力な後継者候補が大阪に住んだのだから、やっぱり当時としても画期的なことだったんじゃないだろうかと思う。 
そして米朝師匠も書かれている通り、決して妥協したりせずに、自分の持ち味をそのまま生かして大阪の客にぶつけたと言うところに、ゆるぎない芸への自信を感じることが出来るのだ。そしてそれを受け入れた、当時の大阪の客にも感動させられる。 

もちろん現代でも、東京の落語を素直に評価することの出来る上方落語ファンは沢山いる。そういう人が、今後もどんどん増えて欲しいと思う。 

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