2006年6月14日水曜日

タレントと噺家

たとえばあなたが落語のファン、あるいはマニアならば、その代表的存在として志ん生、文楽、円生、志ん朝、小さん、談志、そして米朝といった名人たちの名前をすらすらと挙げることが出来るだろう。これらの人々はまさに昭和・平成を代表する古典落語の本格派であり、落語という芸能が続く限りずっと語り継がれていく人たちだ。 

だがあなたがそれほど落語好きではなく、興味も無ければ、こういう人たちの名前はまず出てこないに違いない。ずばり言えば落語=大喜利、または謎かけ(○○とかけて△△ととく、そのココロは...)であり、もっと言えば「笑点」であることだろう。だから「落語家」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、この40年続く国民的バラエティ番組のレギュラーたちであるに違いない。あるいは関西の人気者である三枝、文珍、そして鶴瓶ではないだろうか。 

本芸を極めるのか、あるいはタレントとして顔と名前を売るのが大切なのか。これは両方とも大事だろう。落語家である以上、落語をやるのは当たり前の話であり、ここがおろそかになっていれば話にならない。 
かといって、誰にも知られない無名の存在のままでは、これも芸人として悲しい話だ。なんだかんだ言って「売れてナンボ」が芸能界である。だから、マスコミでもある程度名前の通った売れっ子であり、そして落語の道にもまい進するというのがもっとも相応しいコースであろう。 
若き日の談志、志ん朝、米朝、そして仁鶴は、全てこれらの事をきちんとこなしてきた人たちだ。小朝や志の輔といった比較的若い世代の人々も、ここに入れてよいと思う。 

だが...これからの噺家に、果たして同じ事が出来るだろうか?今の30-40代前半の、もっとも勢いが乗っている中堅・若手達にも、落語が上手い人はたくさんいる。いや当方はこういう人たちの「今」を聴いている訳ではないので「いるらしい」と書いた方が良いだろう。だがこの人たちとて、マスメディアの世界で派手に売れているわけではない。いうなれば「知る人ぞ知る」というクラスに留まっていると見た方が良い。いま流行の、いわゆる「お笑い」というジャンルの世界の売れっ子相手に、現代的なセンスとスピードで、張り合える人などまずいないであろう。 

極端な話、そういう世界でワッと売れるようなセンスと実力の持ち主は、もう落語家になろうとはしないのではないだろうか。 

言うまでも無く、落語家は「仕込み」の時間が長い。そして売り出すのも概して遅い。下手したら40代でも「若手」だ。どう考えても、今の世の中のスピードと合っていない。お笑いとはスポーツに似た所がちょっとあって、40歳を境にスピードとセンスがたいてい衰えている。野球で言えば、速球派でもかならず球速が落ちてくるのだ。そこをどう補うかは本人次第なのだが、噺家の場合は、この球速で勝負できなくなってからがむしろ大事だったりする。分かりやすく言えば「熟成」してくる、と言っても良いだろう。 

だから40歳前後まではテレビで、センスとスピードで勝負し、それから「本芸」である落語の道へ...と出来れば一番良いと思う。逆は、もう現代ではムリだろう。40まで落語をみっちりと勉強して、それからメディアの世界で売れることはかなり難しい。 
鶴瓶などは、50歳辺りから古典落語への回帰が強まり、かなりの成果を上げている様だが、これはやはり師の人並みはずれた実力と精進がなせる業だと思う。そして考えてみると、今まで多くの人気者を輩出してきた上方落語の世界にも、どうも30~40代の人材が不足しているように思える。鶴瓶、そして落語の世界からは外れたが、明石家さんまなどのようなトップクラスの人気と実力を兼ね備えた人は、もう落語の世界からは出てこないと考える方が自然だろう。 


そう考えると、やはり落語はこれからも「伝統芸能」「古典芸能」の道をまい進するしかないのかもしれない。落語という芸能は、他の芸種にも無いしたたかな力を持っていると信じているが、そういう意味では心配をしている。って、ファンの端くれが心配しても仕方が無いか...


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