2006年9月24日日曜日

Ireland's Call

英国の至宝的存在だったサッカー界のスーパースター、ジョージ・ベスト氏が昨年、59歳の若さで亡くなった。
英国のマスコミは、彼の死を大々的に取り上げ、トニー・ブレア首相も「英国が生んだ、最高のサッカー選手の一人だった」と弔意を表した。現役時代はその容貌などからも「The Fifth Beatle」、五人目のビートルズなどとまで呼ぶ人がいた〮だから、そのアイドル性は群を抜いていたのだろう。

しかし、彼はイングランド人ではなかった。ベルファストに生まれた彼は、クラブレベルではマンチェスター・ユナイテッドに在籍して活躍したものの、国際試合においては北アイルランド代表としてプレーした。そして彼は遂に、ワールドカップの大舞台でプレーすることは無かったのである。
北アイルランドがワールドカップの本大会にまで駒を進めたのは、彼が代表入りする前の1958年と、引退後の1982・86年大会であったのは、何か皮肉な感じがする。

このようにサッカーでは、北アイルランドは独自の代表チームを組んでW杯や、欧州選手権などの予選に出場する。
近年では大国との実力差が付いてしまい、大舞台からは遠ざかっている北アイルランドだが、2006年ドイツ大会の予選ではホームでイングランドを撃破。そして、現在行われている2008年欧州選手権予選でもスペインを破るなど、ダークホークスとしての魅力は今でも充分に持っている。ただ、今回の予選でもスペインやスウェーデン、またデンマークなどの強豪等と同じ組に入っているだけに、予選突破までは無理であろう。
これ以外にも、アイルランド共和国は別個に代表チームを結成しているのは、皆さんご存知の通りである。

さてラグビーではどうかというと、南北のアイルランドが政治的問題を乗り越えて統一の協会を結成し、そして代表チームも編成している。だからサッカーとラグビーでは「アイルランド代表」の意味合いが違うのである。
アイルランド代表のラグビーチームが通常、本拠地として使用しているのは共和国の首都、ダブリンにあるランズダウンロード競技場。ここでは試合前に、まずはアイルランド共和国の国歌Soldier's Songが歌われる。しかしそれだけでは終わらない。この後、さらにIreland's Callという、いわばアイルランドのラグビー賛歌が続けて斉唱されるのだ。

なぜこんな事をするのかと言うと、最初の共和国国歌だけでは、北アイルランド出身のファンや選手にとっては具合が悪い。そこでこのIreland's Callをこしらえて、南北どちらの人も気持ちよく歌えるようにしたんでしょうな。
これはホームゲームでの映像だが、ちなみにアウェーでは共和国国歌は演奏せず、Ireland's Callのみを歌うはずである。

共和国の国歌も良いけれど、このIreland's Callもなかなか心を揺さぶる、よい曲だと思いますね。
2006年09月24日08:13

mixi
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=227231626&owner_id=1476488

2006年9月20日水曜日

Hen Wlad Fy Nhadau

サッカーの国際試合やボクシングの世界タイトルマッチ、またはF1の表彰式など、国歌演奏・斉唱は、スポーツのビッグイベントに欠かせないセレモニーとなっている。

アメリカ合衆国の国歌『星条旗』やフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』などは、日本人にもなじみの深い外国の国歌であろう。では、イギリスの国歌は何か?これは『ゴッド・セーブ・ザ・クィーン』(女王陛下万歳)である。ワールドカップでもベッカムやオーウェン、ルーニーなどの「イングランド」代表がワールドカップなどの国際試合に登場すると、この『ゴッド・セーブ・ザ・クィーン』が試合前に演奏され、スタンドを埋め尽くしたイングランドのサポーター達が、力一杯歌っているシーンをご覧になった方も多いであろう。有名なロックバンドだったクィーンも、ライブの終わりでこの曲を演奏していた。
現在はエリザベス女王の御世だから「クィーン」だが、次に獋子が国王の地位に就けば、歌詞は当然「キング」に変わる。

かつては世界に繁栄を誇ったイギリスらしく、この英国国歌はイギリス以外でも国歌として採用され、ニュージーランドではいまだに国歌の一つとして採用されているらしい。ただ、ニュージーランドにはもうひとつ『God Defend New Zealand』があり、ラグビーなどのスポーツ試合では、専らこちらが演奏される。実際、ニュージーランドのスポーツ試合で『女王陛下万歳』が演奏されたシーンを、私は見たことが無い。
またオーストラリアでも、かつてはこの曲が国歌だったはずだが、現在では『アドヴァンス・オーストラリア・フェア』という歌が採用されている。
しかし、この豪州国歌はスポーツイベントで歌われても、どうもいま一つパッとしない歌に聴こえる。有名な『ワルツィング・マティルダ』の方が、個人的には好きだ。

さて、話を英国に戻すが『ゴッド・セーブ・ザ・クィーン』は何度も書いたとおり、イギリスの国歌だ。法律で制定されているわけではないらしいが、そういうことで広く認識されている。だが、ここで言う「イギリス」とはユナイテッド・キングダム(UK)正式国名グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国、のことをさす。
一方、ベッカムやルーニーは、英国を形成する中の「イングランド」の代表であって、UK全体の代表というわけではない。サッカーの世界では今のところ、国際試合の為に全英代表は組織されない。
サッカーに限らず、スポーツの世界では五輪などを除いて、英国は「イングランド」「スコットランド」「ウェールズ」そして「北アイルランド」に分かれて”ナショナルチーム”を編成することが多いのだ。

それでも「イングランド」代表は、「イギリス」国歌である『ゴッド・セーブ・ザ・クィーン』を自らの国歌として通常用いる。エルガーの有名な『威風堂々』も、一応非公式には国歌みたいな位置づけらしいのだが、まぁサッカーなどでは今後も『ゴッド...』が使われるであろう。
ではスコットランドではどうか、というとこれは『スコットランドの花』という曲が、スポーツイベントではよく用いられる。でもこれは公式な”国歌”ではなく、他にもいろいろと候補があるようだ。スコットランド「国内」でも、いろいろ議論があるらしい。

http://news.bbc.co.uk/1/hi/scotland/4837078.stm

そしてラグビー王国・ウェールズでは...ほんとはこれが本題なのだが、前フリが長すぎた...「ランド・オブ・マイファーザー」という歌が国歌として伝統的にうたわれる。ウェールズ語で表記するとHen Wlad Fy Nhadauとなる。
この歌のメロディは大変美しく、そしてラグビーの国際試合で、本拠地ミレニアム・スタジアムを埋め尽くした大観衆が唱和すると本当に物凄い迫力がある。私は世界のいろんな国歌の中でも、ウェールズ人たちの国歌斉唱が一番素晴らしいと思う。


かつて、ラグビーのウェールズ代表は「アームズパーク」というスタジアムで試合を行っていたが、試合前に詰め掛けた大観衆にこの歌を歌われると、その迫力で相手チームは重圧を感じて萎縮してしまい「1トライ1ゴールのアドバンテージをウェールズ代表に与える」と言われたそうだ。
それはともかく、やはり彼らの地声の大きさというか、歌声の素晴らしさにだけは絶対に敵わない。日本人も、最近ではサッカーや野球の試合で国歌を合唱したり、応援歌を歌ったりするけれど、腹からの声の出し方がまるで違うことが、この映像を見ても良く分かるであろう。
2006年09月20日08:50

mixi

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=224182716&owner_id=1476488

2006年9月18日月曜日

さようなら、Kitty

ニューヨーク・ヤンキースの実況アナウンサーであるジム・カットは、先週15日のボストン・レッドソックス戦を最後に「引退」し、今後は妻と共に過ごしたり、フロリダ州でゴルフに興じる日々を過ごすことになった。

15日の試合は、残念ながら雨で流れてしまい、カットの最後の解説を聴く事は出来なかったが、翌16日の同カードを放送したFOXの中継にゲスト出演し、同局のコメンテーターであるティム・マッカーバーと最後の共演を果たした。

カットは1938年生まれ、ワシントン・セネターズの一員として1959年に弱冠20歳でメジャーリーグ・デビュー。翌年初勝利を挙げたが、チームはミネソタに移転し「ツインズ」と名乗った。以来、カットはツインズやシカゴ・ホワイトソックスなどで主力投手として活躍し、1983年にセントルイス・カージナルスで25年に及ぶ現役生活にピリオドを打った。日本で言えば、昭和34年にデビューし、58年に引退したことになる。テッド・ウィリアムズから、ダリル・ストロベリーまで対戦したという。

ちなみに彼がデビューを果たした時の、アメリカの大統領はドワイト・アイゼンハワーであり、引退した時はロナルド・レーガン政権であった。彼がマウンドで投げ続けている間に、大統領はアイゼンハワー→ケネディ→ジョンソン→ニクソン→フォード→カーター→レーガン と移り変わっている。

この間カットは通算283勝をマークし、1966年には25勝を挙げてア・リーグ最多勝のタイトルを獲得している。だがもっと素晴らしいのは、1962年から77年まで、両リーグにまたがってゴールデングラブを獲得し続けたことであろう。通算16度の同賞受賞はピッチャーとして史上最多であり、野手を含めた全体でも1位タイ(ブルックス・ロビンソン)である。また打者としても通算16本塁打を放つなど、投手のみならず、野球選手として優れた才能を持っていた人であった。

引退後は放送席の前に座り、ここでも優れた技能を発揮。派手さは無いが手堅い話し振りで、ファンの心をつかんだ。
私自身もカットのアナウンスぶりは好きで、彼が自伝"Still Pitching"を出版した時に、本にサインをしてもらったが、今でも大切に取ってある。

これほどの活躍をフィールドの内外で見せたカットだが、残念ながらまだ野球殿堂入りは果たしていない。次に彼の姿を目にするのは、クーパースタウンの殿堂入り式典のスピーチであることを祈るばかりだ。
今まで素晴らしい実況をありがとう、そして素晴らしいキャリアに心から賛辞を送りたい。


2006年09月18日15:42

mixi
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=222694063&owner_id=1476488

2006年9月16日土曜日

「週刊ファイト」とペアルックの時代

数日前に、プロレス専門紙の老舗「週刊ファイト」が休刊する、というニュースをこのミクシィで読んだ。

とうとう無くなるのか、というよりも、よくここまで続いたなぁ、という感慨に襲われた。アントニオ猪木やタイガーマスク、長州力といった新日本プロレスの全盛時代、「ファイト」はプロレスファンにとって必読紙の一つであった。いまから20年以上も前の話だ。

「ファイト」では、新日と並んでプロレス界の旗頭である、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの記事は比較的少なかった。だから、全日ファンには必ずしも評判良いメディアではなかったかと思うけど、でも私は東スポとこの「ファイト」だけは、毎週ほぼ欠かさずに読んでいた。今のようにインターネットがある時代ではなく、情報源も非常に限られていたのだ。だからロマンティックな空想も入り乱れて、当時のプロレスには様々な「神話」が存在しえたと思う。だいたい「猪木と馬場は、一体どちらが強いのか?」は、まだプロレスファンにとってもっとも議論を呼ぶトピックであったのだから。

当時はこの2団体に加えて、新日本から派生した格闘プロレスを標榜する「UWF」くらいしかなかった日本のプロレス界だが、その後は新団体が雨後の筍のように発生しては休止するという繰り返しで、プロレス団体に対する求心力が激しく低下。そしてK-1やプライド、UFCといった格闘技ブームの到来で、プロレスというジャンル自体がもう衰退の一途を辿っている。
だから今回の「ファイト」休刊は、一つの時代が完全に終わりを告げる、象徴的な出来事だと言えるのかもしれない。

...そんな事とは直接関係ないが、私の思い出話をひとつ書いてみる。
高校生だった私はある日、駅のスタンドで買い込んだ「ファイト」を読みながら電車に乗っていた。そこに、男女二人のカップルが乗り込んできた。
カップルのいでたちは、今にして思えば異様だった。まず二人とも、お揃いのカンカン帽をかぶっている。そう「嘆きのボイン」で一世を風靡した、あの月亭可朝のトレードマークであるストローハットの一種だ。
しかし、あのカップルが月亭の師匠に憧れて、カンカン帽をかぶっていたわけではなかったと思う。その証拠に、二人はメガネやチョビヒゲは付けていなかったし、ギターも持っていなかった。
ただし、二人ともお揃いの派手なガラ入りのシャツを着て、白いパンツにサスペンダー、というファッションで統一していた。当時、サスペンダーは「ナウなヤング」の必須アイテムだったのだ。
今ではよく覚えていないが、たぶんシューズも「おそろ」だったかもしれない。それは今にして思えば、パリの大道芸人みたいな格好であった。だけど、二人は間違いなく自分達のファッションに誇りを持っていたと思う。二人の全身から「どう、俺たちお洒落だろ?」光線が発せられていたのだ。

つまりあの二人は、上から下までお揃いの「ペアルック」であったのだ。
ペアルック、なんという恐ろしい響きだ。男女が同じ装いで、街へと恥ずかしげもなく繰り出していく。またそれが「良し」とされた時代なのだ。ペアルックが、日本で何時頃から流行したかは分からないが、私の中でプロレスブーム、つまり「ファイト」の黄金時代と、ペアルックの時代はきれいにシンクロしている。特にこの日の印象的なカップルにより、それは消しがたい記憶として私の脳に刻み込まれた。

そして、もっと情けないことに私は
 
「あぁ、あの二人カッコ良いなぁ...俺も自分の彼女と、あんな格好でデートしてみたい」
 
と、一瞬だが思ったのである。ペアルックのでのデートにあこがれたのだ。そこには、先ほどまで読んでいた「過激なプロレス」の世界は微塵も存在していなかった。甘い甘い、ココアとシロップたっぷりのホットケーキを一緒に食べたときのような味わいが、私の脳内一杯に広がっていたのである。

でも、すぐに思い直した。俺があんな格好、似合うわけがないじゃないか。第一あんなファッションをしていたら、10年持つカップルも3年しか持たないかもしれないじゃないかと、極めてアントニオ的な発想で邪念を振り払い、再び「ファイト」の世界へと没頭して行ったのである。
 
そこではブルーザー・ブロディがチェーンを振り回し、藤波が長州に「掟破りの逆サソリ」を仕掛け、そして猪木が延髄斬りで、相手レスラーをマットに沈めていた。
 
2006年09月16日09:44

mixi
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=221083958&owner_id=1476488

2006年9月15日金曜日

米国スポーツ人気の退潮

私が青春期を過ごした80年代~90年代前半は、日本における海外スポーツ人気の最盛期だったと思う。当時はスーパーボウルだけではなく、大学のフットボールの試合も正月に地上波で生放送されていたし、北米スポーツそのものをテーマにしたテレビ番組などもたくさんあった。
アメスポだけではない。F1やセリエを中心とした欧州スポーツも本格的にファンを増やしたし、オージー・フットボールの試合も本場の強豪チームを招き、横浜スタジアムで行われたりしていたのだ。
もちろん、スポーツグッズがファッションにおいても重要な位置を占めていた。

しかし、現在はあらゆる米国スポーツの人気が退潮だと思う。
野茂英雄がドジャースでデビューを果たした1995年頃から、メジャーリーグについては日本人選手の活躍だけを大きく取り上げ、NFLとNBAはその頃から、相次いでファンを失っていった。いまや日本人は野球とサッカー日本代表、そして総合格闘技にだけしか興味を持てないような雰囲気である。

それが良いか悪いか、私には判定を下す資格はない。ただ思うのは、確かに80年代当時の方が、アメスポは面白かった。何が面白いと言うと、選手の個性を見るだけでも楽しかったと思うのだ。

実際のところ、80年代半ばから90年代初頭にかけて台頭してきた選手たちは、実力もさることながら個性的で存在感があり、そして息長い活躍を見せる人が多かった。これは生まれた年で言うと、1960年代前半から半ばに集中しているように、私には思える。
たとえば、思いつくだけでも以下の通りとなる。この時期に生まれたアメリカ・カナダのプロスポーツ選手を、生年別に順不同で挙げてみよう。

1961年生まれ:ウェイン・グレツキー、マーク・メシエ、ダン・マリーノ、スティーブ・ヤング、アイザイア・トーマス、デニス・ロドマン、ドン・マッティングリー

1962年生まれ:ロジャー・クレメンス、ボー・ジャクソン、ジェリー・ライス、パトリック・ユーイング、クライド・ドレクスラー

1963年生まれ:マイケル・ジョーダン、チャールズ・バークレー、カール・マローン、ランディ・ジョンソン、マーク・マグワイア、ブルース・スミス

1964年生まれ:バリー・ボンズ、ドワイト・グッデン

1965年生まれ:マリオ・ルミュー、スティーブ・アイザーマン、デビッド・ロビンソン、スコティ・ピッペン、レジー・ミラー、ランドール・カニンガム

1966年生まれ:グレッグ・マダックス、トム・グラヴィン、カート・シリング、アルバート・ベル、トロイ・エイクマン

(間違っているかもしれないが、また修正します。)

ちなみに個人競技では、カール・ルイスが1961年生まれ、マイク・タイソンは1966年生まれだ。
もちろん、前後の世代にも優れたアスリートはたくさんいるが、この世代の集団はやはり、強烈だ。

特にNBAはバルセロナ五輪の「ドリームチーム」世代だが、バスケ史上に残る優秀な選手の集まりだと言ってもほぼ差し支えないと思う。
NFLに関しては、その前の世代についても充分に人材豊富なのだが、やはりこの上の世代から、最高のアスリートはプロフットボール選手の道を歩むようになったのかもしれない。

この人たちの多くが、90年代後半から相次いで衰えを見せ、現役を退いていった。もちろん今でもバリバリ活躍している人もいるが、彼らの多くが一線を退いてしまった以上、物足りなさを感じるのも、なかば仕方が無いと思うのである。それだけが、日本のアメスポ地位低下の理由ではあるまいが...

2006年09月15日05:49

mixi
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=220299717&owner_id=1476488

2006年9月9日土曜日

私は初代マリナーズファン、かもしれない

シアトル・マリナーズは1977年、いわゆるエクスパンションチーム(拡張球団)として誕生した。
当時のメジャーリーグ...いや「大リーグ」では、ビッグレッドマシンの異名を取ったシンシナティ・レッズやロサンゼルス・ドジャース、またはニューヨーク・ヤンキースと言った古豪が息を吹き返し、ワールドシリーズで対戦していた時代であった。

またこの頃から日本でも、フジテレビが大リーグ中継を開始。毎週日曜日のお昼は、野球の本場アメリカから届く、エキサイティングなプレーを見るのが楽しみになっていた。
ピート・ローズ、レジー・ジャクソン、ジョージ・ブレット(当時はよく『ブレッド』と書いていた)トム・シーバー、そしてノーラン・ライアン...個性豊かな大リーガー達の共演は、まだ子供であった私にアメリカ野球の魅力と、雰囲気と、そしてホットドッグの匂いを(想像の中で)教えてくれたのである。
だいたい、レジー・ジャクソンみたいな風貌の男は日本のプロ野球には決して存在していなかった。あえて言うなら松鶴家千とせだが、彼は野球選手ではなかった。ヤンキースではジャクソンよりも、グレイグ・ネトルズというサードが私の好みだった。彼の弟のジムは、南海ホークスでプレーした事もある。

野球に関することならなんでも記憶したかった当時の私は、当然大リーグの球団やスター選手の背番号などを覚えることに熱中した。その中で目に付いたのが、シアトル・マリナーズという球団である。「マリナーズはまだ出来立ての、大リーグでもっとも新しい球団のひとつ」「本拠地のキングドームは屋根付き球場」というのが、私の興味を大いにそそった。ドーム球場は憧れだったし、新しいチームというのが良い。出来立てで弱そうだけど、これから強くなるかもしれない。よし!俺はマリナースを応援しよう。そう決めた。

割合に簡単な理由で、私はマリナーズを応援することに決めた。といっても、当時のマリナーズにはスーパースターはいなかった。後に阪神タイガースでプレーする、ルパート・ジョーンズが主力選手として活躍していたはずだけれど、当時はもちろん、そんな事は知る由も無かった。それに弱いチームだから、そもそもマリナーズの試合を見る機会は日本で殆ど無かった、といっても良いだろう。
 
私が見落としていたのかもしれないが、少なくとも当時、マリナーズという球団の存在自体、日本ではマイナーも良いところだった。今のように、海外スポーツの情報がそこかしこに転がっている時代ではもちろん無く、乏しいテレビ中継と雑誌、スポーツ新聞などのメディアから、その戦いぶりを想像するのが関の山だった。だからなにか特別に、ファンとしての行動を起こすということは無かった。

それに何時しか大リーグへの興味は薄れがちになり、当時もう一つの人気スポーツになりかけていたアメリカン・フッボトール...いわゆる「アメラグ」へと私の関心は移った。それでマリナーズの事も、すっかり関心を失うようになっていった。
私がマリナーズに対する興味を、再び覚えるようになったのはずっと後、ケン・グリフィーJr.が登場した頃だから、80年代の末か。当時はラフィーバーが監督を務めていたが、なにしろその頃になっても、球団が出来てから一度も勝ち越したことが無かったという、呆れるほどに弱い球団だった。

でも90年代に入ってからは、ジュニアやティノ・マルティネス、エドガー・マルティネスにランディ・ジョンソン、そして若き日のA-Rodなど多くの人材が育ち、マリナーズは強豪への地位をだんだんと駆け上がっていく。また佐々木主浩やイチロー、そして城島などが在籍し、日本人にもなじみの深い球団になった。
でも、私が初めてシアトルを訪れたのは2000年の事。キングドームは既に無く、真新しいセーフコ・フィールドが完成していた。そして私自身、特別にマリナーズへの思いを掻き立てるようなことはもう、なかった。

この年の秋、マリナーズはリーグ優勝決定シリーズまで駒を進めるも、ヤンキースに2勝4敗で敗れ、初のリーグ優勝を逸してしまう。翌年にはイチローを擁してシーズン116勝の快進撃を見せたが、やはりリーグ制覇の美酒に酔うことは無く終わっている。
 
2006年09月09日08:55

mixi
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=215858961&owner_id=1476488


 

2006年9月4日月曜日

アガシ引退

今日の新聞各紙、一面トップはだいたい全てアガシ。
長い競技生活に、遂に終止符を打つことになりました。
36歳、よくここまで頑張ったな。

サンプラス&アガシの時代も、これで完全に終了です。
長くファンを楽しませてくれましたからね。
もちろんテニスが終わるわけじゃなけれど、個人的にはこれで確実に、テニスに関する興味が減ることになる。
フェデラーやナダル、それにA-Rod達ももちろん素晴らしい選手だけど、まだアガシやサンプラスほどの興奮と感動をもらっていない気がする。
マッケンロー、ボルグ、それにジミー・コナーズ、皆個性的で、凄い選手ばかりでしたね。テニスの神々の時代、とまでいえば言いすぎかな...競技の枠を超えて、スポーツ好きな人なら、皆知っていましたよね。
アガシもこの系譜に連なる人だと思います。

今の名選手であるフェデラーやヒューイットたちももちろん素晴らしい選手だとは思うんですが、彼らとは比較にならないというか、いま一つピンと来ない。その人の生き様みたいなものが見えてこないんですね。あくまでテニスの世界の住人という印象です。だから彼らの足跡を追いかけよう、という気持ちがイマイチ起こってきません。
自分が歳をとって、感性が鈍ったというのもあるんでしょうけどね。


2006年09月04日23:27

mixi
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=212705355&owner_id=1476488


2006年9月1日金曜日

アメリカ野球の不安

フィラデルフィア・フィリーズのライアン・ハワードは、今季ナショナル・リーグの本塁打・打点両部門でトップを走っている。今夜のワシントン・ナショナルズ戦では49号を打って、あのマイク・シュミットが持っていたチーム記録を塗り替えてしまった。このまま行けば、年間60本塁打達成も決して夢ではなくなってきた。そして二冠王を獲得すれば、リーグMVPの有力候補にもなるであろう。

ハワードは1979年生まれ、今年の11月で27歳の誕生日を迎える。このまま伸びれば将来のホール・オブ・フェイマー(殿堂入り選手)となりそうだが、実はハワード、ミズーリ州生まれのアメリカ人で、いわゆる黒人選手である。
ところが近年、アメリカではアフリカ系の子供たちが、野球選手への道を選ばず関係者を悩ませているのだ。
メジャーリーグで最初の黒人スターとなったのは言うまでもなく、元ブルックリン・ドジャースのジャッキー・ロビンソン。以来ウィリー・メイズやヘンリー・アーロン、そして現在のバリー・ボンズやケン・グリフィーJr.に至るまで、彼らはアメリカ野球の代名詞として君臨してきた。20世紀後半におけるメジャーリーグの魅力は、彼らが生み出してきたものが実に大きな部分を占めている。

ところが、今、アメリカ人の黒人選手で野球のスーパースターが減って来ている。ハワードや「Dトレイン」ことドントレル・ウィリスなどのヤングスターももちろんいるが、彼らはいまだ「野球内スター」に留まっている。NBAのレブロン・ジェームスや、NFLのスーパールーキーであるレジー・ブッシュ、ヴィンス・ヤングのような、競技の枠を超えたスーパースターとしての地位を獲得できるかどうかは、まだ分からない。黒人アスリートのトップクラスが野球ではなく、フットボールやバスケットボールを最終的に選択するのは、もはや当然のようになってきているのだ。

リトルリーグなど少年野球関係者にとってもこれは悩みの種のようで、たとえ野球をプレーしている子供でも、実際に憧れているのはマイケル・ジョーダンなど、他競技でのスタープレイヤー、というケースが多いようだ。アフリカ系の子にとっては、もはや野球はとっくの昔にナンバーワンスポーツではなくなっているのである。
アメリカの子供たちは一つの競技だけではなく、シーズンによって様々なスポーツをプレーする。だから春は野球で秋はフットボールの選手、という子供も多いのだが、逆に言えばそれだけ他競技へ「浮気」するのも容易なわけで、魅力を感じなければあっという間にその子は、野球をプレーすることを忘れてしまう。

ボー・ジャクソンやディオン・サンダースのように、複数の競技を掛け持ちしてプロでプレーする人もたまにはいるが、これはあくまでレアケース。プロになる段階で野球を選ばない子が増えれば、アメリカの野球界そのものの実力低下は顕著になるであろう。だから子供たちにいかにして野球の魅力を知ってもらい、シニアレベルにまで継続してプレーさせられるかどうか、これが大きな課題になってくる。野球を愛し野球を生涯の仕事とするコーチや関係者にとっても、これは決して容易な話ではない。

とはいえ、メジャーリーグ自体はカリブ海諸国をはじめ、世界中から良い選手が集まるから、黒人選手のスター自体は減っていない。国籍を超えて実力で評価される世界だから、直接の影響がすぐに出るというわけではないだろう。
しかし、メジャーの総本山であるアメリカの中で、アフリカ系の子供たちが野球をプレーしたがらないとしたら、やはりそれは様々な意味でマイナスの要素となりえる。トップアスリートの多数を占める彼らが、野球に魅力を感じずプレーしないということは、野球はもはや、アメリカでは最高のスポーツではない、という事をおのずから証明してしまうことになる。
メジャー版「レブロン」は、果たして21世紀のアメリカで誕生するのであろうか。
 
2006年09月01日08:32

mixi
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=210080279&owner_id=1476488

My Winding Path to English Mastery