阪神タイガースや広島カープで投手として活躍、「優勝請負人」と呼ばれた江夏豊は、若い頃から自分のピッチングの内容を詳細にノートに書き記していた。
1年間に1冊のペースで、配球表や球数はもちろんのこと、登板したときのシチュエーションや自分の心境、さらには体温に至るまで事細かくメモしていたという。このノートの記されたデータを見れば、江夏が毎年、毎試合どんなピッチングをしていたのか、手に取るように分かったはずである。
江夏いわく、ピッチャーにとって重要なのはボールのスピードとコントロール、そして記憶力だという。江夏のような名選手は、概して抜群の記憶力の持ち主であることが多いけれど、経験したことをノートに書き綴ることで、何時までも頭の中に植えつける、というトレーニングをしていたのだ。それはもちろん、自分のピッチングにフィードバックされる。
江夏に日記を書くように最初に勧めたのは、タイガース入団時の監督である老将、藤本定義であった。だが江夏は(一流のアスリートにありがちだが)字を書くという面倒な作業が嫌いで、ピッチング日記を書くのには抵抗を感じていた。
江夏いわく、ピッチャーにとって重要なのはボールのスピードとコントロール、そして記憶力だという。江夏のような名選手は、概して抜群の記憶力の持ち主であることが多いけれど、経験したことをノートに書き綴ることで、何時までも頭の中に植えつける、というトレーニングをしていたのだ。それはもちろん、自分のピッチングにフィードバックされる。
江夏に日記を書くように最初に勧めたのは、タイガース入団時の監督である老将、藤本定義であった。だが江夏は(一流のアスリートにありがちだが)字を書くという面倒な作業が嫌いで、ピッチング日記を書くのには抵抗を感じていた。
ところが、ピッチャーとしての先輩であった村山実に「人間の記憶はあてにならない。最初は落書き調で良いから、少しずつ書くと良い」とアドバイスされ、それなら...とメモを取り始めた。
最初は確かに簡単なことしか書いていなかったが、書き進むにつれてより詳細なメモを取るようになった。球団からスコアブックを借りて自分の投球内容を確認しながら、精密な記録を自分でも残すようになっていったのだ。たとえばこの打者に対し、勝負球の前にどんなボールを投じていたのか、その時どのような気持ちで投げていたのか。結果だけではなく、それが導かれた過程にまで踏み込んで、江夏は記録を残すようになっていたのである。
もともと優れた「野球頭」の持ち主がさらに人一倍の勉強するのだから、まさに鬼に金棒だったに違いない。
江夏がメモを取るきっかけとなった人はもう一人いて、それは昭和44年に阪神の指揮を取った「クマさん」こと後藤次男であった。
もともと優れた「野球頭」の持ち主がさらに人一倍の勉強するのだから、まさに鬼に金棒だったに違いない。
江夏がメモを取るきっかけとなった人はもう一人いて、それは昭和44年に阪神の指揮を取った「クマさん」こと後藤次男であった。
後藤はパチンコや競馬などギャンブルが好きな人だったようだが、自分の遊びの結果を「勝負事ノート」として書き綴っていたらしい。パチンコは「パ」麻雀なら「マ」と略して、その結果をメモする。後藤はこのノートをつけるのが楽しみで、クセになってしまい書かないと落ち着かないんだ、と江夏に語っていたという。
...確かに、何事かを書く習慣が付いてしまうと、それを中断するとなんだか気持ち悪い、というのは良く分かる。
...確かに、何事かを書く習慣が付いてしまうと、それを中断するとなんだか気持ち悪い、というのは良く分かる。
私は日記を書かないが(強いていうならこのブログ)その代わりノートに、本や雑誌、またネットなどから仕入れた情報をほぼ毎日、ざっとメモしている。江夏における投球内容のように、しっかりと頭に残す必要性があるわけでは必ずしも無いけれど、せっかく調べて得た情報も、ネットサーフィンしたり雑誌を読みっぱなしにして終わりでは、私はすぐに忘れてしまう。記憶の片隅には残っているんだろうが、何かキーワードのようなきっかけを与えないと頭から検索されて出てこない。
またテレビやラジオの情報というのも、案外バカに出来ない。言ってみれば垂れ流しの、一過性のメディアであるからこそ、記録を取っていれば後に意外と活きる事もある。ただ、実際の問題として、テレビを見ながらノートを取るというのはさすがに稀だが...
何も手書きにしなくても、パソコンのメモパッドのようなものにコピーしたり、あるいはサイトのアドレスを取っておくだけでも良い(実際そうする事もある)のだが、私にはノートに書く方式が一番合っているのだ。
それこそ箇条書きの項目だけでも良い、紙に書いて残しておくと、後からそれを観るだけでするするっと内容を思い出す(事もある)。江夏が言うとおり、書く事で記憶により鮮明に定着していると思う。
...話が脱線したが、江夏は西武ライオンズで現役を退く1984年まで、毎年ピッチングノートを作り続けた。正確には、西武時代はあまりメモできなかったようだが、最後には手提げ袋2つ分くらいのボリュームある、ノートや手帳の山が出来上がった。これはそのまま取っておけば、日本のプロ野球史研究に役立つ貴重な資料になったことだろう。何より後進の選手たちにとって、願っても無い投球術のテキストになった可能性もある。
何も手書きにしなくても、パソコンのメモパッドのようなものにコピーしたり、あるいはサイトのアドレスを取っておくだけでも良い(実際そうする事もある)のだが、私にはノートに書く方式が一番合っているのだ。
それこそ箇条書きの項目だけでも良い、紙に書いて残しておくと、後からそれを観るだけでするするっと内容を思い出す(事もある)。江夏が言うとおり、書く事で記憶により鮮明に定着していると思う。
...話が脱線したが、江夏は西武ライオンズで現役を退く1984年まで、毎年ピッチングノートを作り続けた。正確には、西武時代はあまりメモできなかったようだが、最後には手提げ袋2つ分くらいのボリュームある、ノートや手帳の山が出来上がった。これはそのまま取っておけば、日本のプロ野球史研究に役立つ貴重な資料になったことだろう。何より後進の選手たちにとって、願っても無い投球術のテキストになった可能性もある。
だが、江夏は84年の冬、これを友人宅で全て焼却してしまう。プロ野球人生は終わった、これからは新しい道を歩み始めるんだ、と言う事で、きれいさっぱり燃やしてしまったのだという。江夏にとってピッチングノートは、自分のプロ野球人生の証しであり、シンボルのようなものになっていたのだろう。自分の分身のようなノートを燃やしてしまうのは簡単ではなかったはずだが、しかしもう、一冊も現存していないはずだ。
実際にはこの後、江夏はブリュワーズのキャンプに参加する。だが、ノートを焼却処分した時点で、やはり現役生活には一区切りを打っていたのかもしれない。
<参考資料>
「左腕の誇り:江夏豊自伝」江夏豊(草思社、2001年)
「ワイもいうでェ~」江夏豊(海越出版社、1985年)
実際にはこの後、江夏はブリュワーズのキャンプに参加する。だが、ノートを焼却処分した時点で、やはり現役生活には一区切りを打っていたのかもしれない。
<参考資料>
「左腕の誇り:江夏豊自伝」江夏豊(草思社、2001年)
「ワイもいうでェ~」江夏豊(海越出版社、1985年)
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