2006年8月29日火曜日

江夏のピッチングノート

阪神タイガースや広島カープで投手として活躍、「優勝請負人」と呼ばれた江夏豊は、若い頃から自分のピッチングの内容を詳細にノートに書き記していた。
1年間に1冊のペースで、配球表や球数はもちろんのこと、登板したときのシチュエーションや自分の心境、さらには体温に至るまで事細かくメモしていたという。このノートの記されたデータを見れば、江夏が毎年、毎試合どんなピッチングをしていたのか、手に取るように分かったはずである。

江夏いわく、ピッチャーにとって重要なのはボールのスピードとコントロール、そして記憶力だという。江夏のような名選手は、概して抜群の記憶力の持ち主であることが多いけれど、経験したことをノートに書き綴ることで、何時までも頭の中に植えつける、というトレーニングをしていたのだ。それはもちろん、自分のピッチングにフィードバックされる。

江夏に日記を書くように最初に勧めたのは、タイガース入団時の監督である老将、藤本定義であった。だが江夏は(一流のアスリートにありがちだが)字を書くという面倒な作業が嫌いで、ピッチング日記を書くのには抵抗を感じていた。
ところが、ピッチャーとしての先輩であった村山実に「人間の記憶はあてにならない。最初は落書き調で良いから、少しずつ書くと良い」とアドバイスされ、それなら...とメモを取り始めた。
最初は確かに簡単なことしか書いていなかったが、書き進むにつれてより詳細なメモを取るようになった。球団からスコアブックを借りて自分の投球内容を確認しながら、精密な記録を自分でも残すようになっていったのだ。たとえばこの打者に対し、勝負球の前にどんなボールを投じていたのか、その時どのような気持ちで投げていたのか。結果だけではなく、それが導かれた過程にまで踏み込んで、江夏は記録を残すようになっていたのである。
もともと優れた「野球頭」の持ち主がさらに人一倍の勉強するのだから、まさに鬼に金棒だったに違いない。

江夏がメモを取るきっかけとなった人はもう一人いて、それは昭和44年に阪神の指揮を取った「クマさん」こと後藤次男であった。
後藤はパチンコや競馬などギャンブルが好きな人だったようだが、自分の遊びの結果を「勝負事ノート」として書き綴っていたらしい。パチンコは「パ」麻雀なら「マ」と略して、その結果をメモする。後藤はこのノートをつけるのが楽しみで、クセになってしまい書かないと落ち着かないんだ、と江夏に語っていたという。

...確かに、何事かを書く習慣が付いてしまうと、それを中断するとなんだか気持ち悪い、というのは良く分かる。
私は日記を書かないが(強いていうならこのブログ)その代わりノートに、本や雑誌、またネットなどから仕入れた情報をほぼ毎日、ざっとメモしている。江夏における投球内容のように、しっかりと頭に残す必要性があるわけでは必ずしも無いけれど、せっかく調べて得た情報も、ネットサーフィンしたり雑誌を読みっぱなしにして終わりでは、私はすぐに忘れてしまう。記憶の片隅には残っているんだろうが、何かキーワードのようなきっかけを与えないと頭から検索されて出てこない。
またテレビやラジオの情報というのも、案外バカに出来ない。言ってみれば垂れ流しの、一過性のメディアであるからこそ、記録を取っていれば後に意外と活きる事もある。ただ、実際の問題として、テレビを見ながらノートを取るというのはさすがに稀だが...

何も手書きにしなくても、パソコンのメモパッドのようなものにコピーしたり、あるいはサイトのアドレスを取っておくだけでも良い(実際そうする事もある)のだが、私にはノートに書く方式が一番合っているのだ。
それこそ箇条書きの項目だけでも良い、紙に書いて残しておくと、後からそれを観るだけでするするっと内容を思い出す(事もある)。江夏が言うとおり、書く事で記憶により鮮明に定着していると思う。

...話が脱線したが、江夏は西武ライオンズで現役を退く1984年まで、毎年ピッチングノートを作り続けた。正確には、西武時代はあまりメモできなかったようだが、最後には手提げ袋2つ分くらいのボリュームある、ノートや手帳の山が出来上がった。これはそのまま取っておけば、日本のプロ野球史研究に役立つ貴重な資料になったことだろう。何より後進の選手たちにとって、願っても無い投球術のテキストになった可能性もある。
だが、江夏は84年の冬、これを友人宅で全て焼却してしまう。プロ野球人生は終わった、これからは新しい道を歩み始めるんだ、と言う事で、きれいさっぱり燃やしてしまったのだという。江夏にとってピッチングノートは、自分のプロ野球人生の証しであり、シンボルのようなものになっていたのだろう。自分の分身のようなノートを燃やしてしまうのは簡単ではなかったはずだが、しかしもう、一冊も現存していないはずだ。

実際にはこの後、江夏はブリュワーズのキャンプに参加する。だが、ノートを焼却処分した時点で、やはり現役生活には一区切りを打っていたのかもしれない。

<参考資料>
「左腕の誇り:江夏豊自伝」江夏豊(草思社、2001年)
「ワイもいうでェ~」江夏豊(海越出版社、1985年)
 
2006年08月29日14:23

mixi
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=208044250&owner_id=1476488

2006年8月13日日曜日

読書日記、コント・ランデュ

鹿島茂『成功する読書日記』

読書論や文章論の本はたくさんあるが、読書日記の書き方について書かれた本は意外と少ない。しかし、読書家はただ読むだけでなく、読んだ後の記録にも気を使っているはずであり、そういう意味で本書は貴重である。

http://www6.plala.or.jp/Djehuti/310.htm

読書日記(これ。)で引用をするというのは、なるべく心がけてやるようにしてます。 
でもそれを発展させたレジュメっていうのはすごいなー。
次のコント・ランデュ(自分の言葉で要約)、そのあとでやっと批評ができる・・・



http://www.webdokusho.com/shinkan/0211/t_3.htm (リンク切れ)


成功する読書日記・入門編。まずはアトランダムな引用から初めて、次に引用だけからなるレジュメかコント・ランデュ(compte-rendu:物語や思想を自分の言葉で言い換えて要約)。それに簡単な感想かコメントをつけて、読書日記はここまで。 
そこから先は「批評という大それた行為」の領域だと書いてある。あとがきにかえて添えられた「理想の書斎について」がよかった。膨大な蔵書を誇る図書館を書庫代わりにつかう、書庫なし、書棚なしの「理想生活」を送るためにも、引用レジュメやコント・ランデュで読書日記をつける習慣が不可欠だと書いてある。


http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/NIKKI3/227.html





2006年8月9日水曜日

ラグビーのポジション

マイミクのきんぐさんが、高校野球の背番号について書かれていた。


そこで、私としてはラグビーの背番号やポジションについて書いてみよう。
ラグビーの場合は

①②③=フォワード第1列(フロントロウ)
①③プロップ
②フッカー 

④⑤=フォワード第2列(ロック=セカンドロウ)

⑥⑦⑧=フォワード第3列(バックロウ)
⑥⑦=フランカー
⑧=ナンバーエイト

⑨⑩=ハーフバックス
⑨=スクラムハーフ
⑩=スタンドオフ

⑪⑫⑬⑭=スリークォーターバックス
⑪⑭=ウィング
⑫⑬=センター

⑮=フルバック

というのが基本構成である。
もちろん、背番号の通り並ぶとは限らない。
それにラグビー王国のニュージーランドでは、⑩⑫のユニットを「ファイブエイス」と呼ぶ、などポジションの呼称は地域によって異なる。
特に⑩は「スタンドオフ」のほかに「フライハーフ」というのもかなり一般的だ。でも日本のファンで「フライハーフ」と呼ぶ人は稀だろう。

人によって好きなポジションは異なるが、私はセンターとエイトが好きである。プロップをプレーする人は奥が深くて面白い、というけれど、私にはもちろんその深さは分からないものがある。
ラグビーも元々はフルバックが①だったんですよ。でも今から50年ほど前に、現行のシステムに変更されたはずです。
その変更の経緯について書かれた文章を昔読んだはずなのですが、今は覚えておりません。

ちなみに13人制のラグビーリーグでは一般的に、今でもフルバックに1番を与えます。そしてハーフバック(スクラムハーフ)が7番で、そしてフォワードがプロップから順に8~13番になります。


2006年08月09日16:25

mixi

2006年8月6日日曜日

ケン・シングルトンたっぷり長講

昨日のボルティモア・オリオールズとニューヨーク・ヤンキースの一戦はYESネットワークの中継で、実況はケン・シングルトンとポール・オニールのコンビで行われるはずだった。

ところが、ポーリーの乗った飛行機がトラブルか何かで飛ばなかったらしく、そのままシンシナティで釘付け。パートナーが来なかったシングルトンは、仕方なく一人で3時間の実況をこなした。

3時間喋り続けるのは、なかなかしんどいと思うよ。でも、元選手ながらこういう場面できっちり実況・解説をこなしてしまうところが、やっぱり彼らベテランの凄いところだろう。
 
2006年08月06日10:13

2006年8月3日木曜日

篠竹幹夫さん死去

日大フェニックスの監督として、日本のアメリカン・フットボールの歴史に大きな足跡を残した篠竹幹夫さんが、先月の10日に死去されていたことがわかりました。

最近はすっかり低迷したようですが、篠竹監督時代のフェニックスは、そりゃもう大学のチームとはとても思えないような強豪チームでした。その攻撃戦術の代名詞は、なんと言っても「ショットガン」。
日大vs関学、あるいは日大vs京大の甲子園ボウルにおける宿命の対決は、まさに日本のアメフト史に残る名勝負の数々ですね。
ああいう試合を生で見て、フットボールの魅力に触れたファンも当時は多かったと思います。
その黄金期はあまりに強すぎて憎たらしい感じもしましたけど、氏のフットボールに対する情熱と理論は、やっぱりピカイチでした。
強面な印象が強い人でしたが、しかし教え子である内田さんのコメントを見ると、シーズン中は怒らなかったんですね。ちょっと意外でした。

アメリカのカレッジフットボールにも多くの名将がいますが、日本人にあった戦法を常に模索していたという意味でも、篠竹さんは本場の一流どころにも決して負けないだけの優れた指導者だったと思います。
 
たとえばラグビーでも明治の「重戦車フォワード」それに対抗する早稲田の揺さぶり攻撃みたいに、当時の大学スポーツは非常に特色豊かで面白かったですね。
甲子園ボウルが名前の通り関西での開催で、アメフト熱が伝統的に高く、王者日大に挑み倒す関西勢、て図式がまた良かったと思います。
前に「シーズンチケット」で書いたんですが、京大がショットガンを徹底的に研究しそれを打ち破るのは、日本のフットボール史上に残る名場面でしょうね。

あとフェニックスを題材にした映画があったんですけど、菅原文太が篠竹さんの役を演じたんじゃなかったカナ。
 
合掌。
 
 
2006年08月03日10:17

mixi
 

My Winding Path to English Mastery